修羅の道を共に





山南さんに続いて。
油小路で瀕死の重傷を負った平助が変若水を飲んで羅刹となった。

江戸で皆が笑い合って木刀を振り回していた頃にはもう戻れはしないのだ。

たとえ何があろうとも山南さんは山南さんで、平助は平助である。
それは変わらない。
だが人として生きる道は変若水を飲んだ時に断たれてしまった。
彼らは表向きには死んだとされ、堂々と大手を振って外を歩けない。

羅刹は昼間の活動に向かない事もあり、彼らは主に陽が落ちて辺りが暗くなった夜間に活動を行う。
“羅刹隊”と名づけられ、今は山南さんを中心として夜間の警備という仕事をしていた。

その羅刹隊も。
伊東さんの暗殺及び御陵衛士の一掃で隊士たちが屯所を出払っていた際。
警備が手薄になっていた所を襲撃して来た鬼の頭領、風間千景によって大分やられてしまっていた。



そして―――



襲撃された時。
普通の人間でも酔いそうな程の血の匂いに。
暴走する羅刹隊士が出始め。
外で食い止められなかった羅刹たち数名が屯所内に侵入。
病で臥せっていた総司の部屋にも入り込んでしまったのだった。

今の総司はとても剣を取って戦える状態ではない。
それなのに無理に身体を動かしたのだろう。

屯所内の被害は少なくて済んだが……

総司の身体は悲鳴を上げていた。

俺がいながら。
総司の部屋へと羅刹の侵入を許してしまった事が悔やまれるが。
今更そんな事を言ってもどうにもならない。
俺はただただ歯の根を鳴らすばかりだ。



食欲が振るわない総司に少しでも何かを口に入れてもらいたいと用意された食事の膳を持って廊下を歩く。
部屋の前まで来ると。

「……けほっ、こほっ……」

総司の咳の声が障子越しに聞こえてきた。
思わず耳を塞ぎたくなる程。
苦しそうで、何もしてやれない自分が歯痒い。

総司は己の病について他の者に隠している。
“性質の悪い風邪”
そう言って誤魔化して。
“労咳”という病名を決して口にしないのだ。

俺は松本先生が総司にこの病名を告げた所に居合わせ、こっそり聞いてしまったため既に知っているが。
まだはっきり労咳だと知らぬ者も多い。

だが……
このまま病状が悪化すれば。
いくら総司が隠そうと隠しきれぬだろう。

そろそろ限界なのではないかと思う。

総司は床に臥せっている事が多くなり、新選組の隊務などからは遠ざかっている。
もう刀を手にして戦う事など出来ぬ身体だ。

いずれは。
“労咳”という病である事が隊士たちに知られてしまう事だろう。

そうなったら総司はどうなるのだろうか……?

副長も何も言わぬがおそらく勘付いているのだと思う。
はじめこそ嫌な咳をしていると顔を顰める程度であったが。
ただの風邪にしてはおかしいという事などずっと見ていれば誰にだってわかる。
幹部の面々はおそらく皆気づいているのだろう。
けれど誰も総司に直接問い質したりしないのは。
病の事を隠している総司の気持ちを考えれば胸が痛むからだ。

総司がたとえ重い病で動けぬ身となっても。
決して足手まといだなどとは思わない。
皆、総司の事を大切に思っている。
どのような状況になろうとその存在に価値はあるはずだ。
出来る事ならばそばにいて欲しい。

しかしこのままではいけないと。
総司の身体の事を大事に思うのならば。
どこかで苦渋の決断を下さねばならぬ時が来るのではないだろうか。
そんな風にも思う。

「…………」

手に持った膳が震える。
咳の声を聞きながら。
無力な自分を感じて静かに唇を噛みしめた。



そんな時だ。



「げほげほっ、がはっ……」

一際激しく咳き込む声が響いて。
思わず息を呑む。

俺は慌てて膳を床に置くと、部屋の障子戸を開け放った。

「総司!?」

部屋に入った瞬間。
目に飛び込んできたのは。

真っ白な布団に広がる赤。

ぎょっとして駆け寄る。
布団の中で蒼白な顔をしながら蹲っている身体にそっと触れた。
汗で湿った布越しに伝わる熱。
荒い息を吐く度に上下する肩。
苦しそうな総司の背を擦りながら、口元についた血を懐紙で拭ってやれば。
虚ろげな瞳と視線が合う。

「……はじ…め…君……」

弱々しい声。
だがどこかで焦りを含んでいて、何かに怯えるようでもあった。

総司が恐れているのは“死”ではない。
病を知られてしまう事。
新選組の“剣”として存在出来なくなる事。

血を吐いた所を俺に見られてしまったという事に対して身を縮める総司。
既に病の事を知っているとはいえ。
今まで総司がこれ程の量の血を吐いた所を見た事はなかった。
俺は息を呑んでその赤い色を凝視した。

真っ白な布団に広がるその赤は。
もう隠しきれはしないだろう。



やがて、俺の慌てた声を聞き。
よからぬ気配を感じ取ったのか。
焦ったようにこちらへと向かって来る足音が聞こえてくる。

そして。

「総司!?」

副長が総司の部屋へと飛び込んで来た。

「な!?おい、大丈夫か総司!?」

布団に広がる赤を見て。
副長が目を見開く。
滅多に見せる事のない新選組副長の慌てふためいた姿。
すぐさま総司の身体に駆け寄り。
総司を挟んで俺と向かい合わせになる位置に座り込む。

副長の後に続いて。
幹部の皆がぞろぞろと集まって来る。
皆総司の吐いた血の量にぎょっとした様子で沈痛な面持ちをしていた。
最後にやって来た山南さんだけが、寂しげな表情を見せつつも、どこか冷たく鋭い瞳で総司を見つめている。
俺はそれが気になったが、今はそれよりも総司が心配でならないため深く考えなかった。

近くにあった手ぬぐいで総司の額に浮かんだ汗を拭き取ってやりながら。
副長は俺に視線を送ってくる。

それは無言の宣告のようであった。

ああ。
もう限界なのだと、俺はそれに従う意思を示して頷く。



副長の視線が布団の中にいる総司へとゆっくり下ろされる。

苦しげな総司のその姿は。
見ているだけでこちらの心臓を握り潰すかのようだった。

俺にとっては恋仲であったから余計にそう感じるのかもしれなかったが。
副長も眉根を寄せて心底辛そうな表情を見せているのだから。
総司を大切に思っているのは俺だけではないはずだ。

副長は総司にこれから告げなければならぬ事を思い、更に唇を噛み締めた。

本当はそれを口にしたくない思いでいっぱいなのだろう。
けれどいずれは言わねばならぬ事だった。

もっと早くにそれを言うべきだったのかもしれない。

ただ総司の気持ちを考え、新選組にそのまま置き続けていた。



もうこれ以上は―――





「総司」





副長の抑揚のない声が静かな部屋に響き渡る。





「お前は江戸に帰れ」





新選組が出来る前。
まだ京に来たばかりの頃。
いつか副長が総司に言った言葉。

まるで時が戻りあの時の台詞がそのままこの場に落ちてきたのではないかと思える程。
声の調子も同じだった。

あの頃の総司はまだ人を斬った事がなかった。
そんな総司に人斬りなどをさせたくなくて。
副長が告げた言葉だった。

今、この言葉は別の意味で告げられている。

総司の身体を案じ、きちんと療養して欲しい。
その思いから出た言葉。



その言葉を聞いて、総司は弱々しくも微かに目を見開いた。
何も言い返さない。
いや言い返せなかったのだろう。

総司はそのまま意識を手放してしまった。

大量の血を吐いてしまったせいかもしれぬ。
それとも副長の言葉に大きな衝撃を受けたせいなのだろうか。

それはわからない。

ただ。
意識を失ってしまった総司にしてやれる事は。
汗だくの身体を拭いてやる事と。
赤く染まってしまった布団を変えてやる事くらいだった。





**********





夜が更ける。
今宵は満月。
どこか赤味を帯びた月光が闇を照らしていた。
美しくも少し不気味な印象を与える月夜。

夜の静寂の中。
遠くから犬の遠吠えが響いて来る。

暗闇の中、風に揺れる木々のざわめきが不穏な空気を運ぶ。
何かよからぬ事が起きそうで落ち付かない。
そんな夜だ。



俺は自分の部屋で一人。
布団の中で目を閉じ、時折ガタガタと障子戸を揺らす風の音を聞いていた。
総司の事を考えるとなかなか寝付けず寝返りを打つ。

駄目だ、眠れん。

がばりと布団を剥ぐと起き上がる。

何か不安な気持ちが膨れ上がり、部屋を出ると。
そのまま総司の部屋を目指して廊下を歩く。
どういうわけか無性に心がざわつくのだ。

何事もなければそれでいい。
気のせいであれば。

そんな風に思いながら暗闇の中を行く。
すると。

「けけけっ……」

どこからか小さく耳に響く笑い声が聞こえてきた。
誰かいる。
いやこれは、人の気配ではない。
これは……
羅刹……?

「僕は……まだ戦える……!」

不意にもう一つの声。
この声は……



総司―――!?



はっとして。
慌てて駆ける。
総司の部屋を目指し、一直線に廊下を走った。

総司の部屋にまたも正気を失った羅刹が侵入したのか!?

大量の血を吐いたばかりで。
今日はずっと気を失っていた。
声がしたという事は目を覚ましたのだろうが。

今の総司が羅刹と戦えるわけがない!

ぞくりと悪寒が走り。
冷や汗が流れる。

総司の部屋までそれ程距離があるわけではないはず。
だというのに。
とても遠い場所のように感じてしまう。
なんとその距離の長い事か……
やっと辿り着いた時には間を置かず、ばんと勢いよく障子戸を開いた。

「総司!」

戸を開いた瞬間。
俺の目に映ったのは……



飛び散った赤―――



赤く染まった部屋と。
血まみれの総司。



俺はそれを見た瞬間息を呑む。
総司が斬られたのかと一瞬くらりと気が遠くなるのを感じた。

だが、よく見てみると総司は座り込んでいるとはいえ倒れる様子はない。
それどころか床に転がっているのは心臓を突かれた羅刹だった。

月明かりだけではよく見えない部屋の中。
俺は目を凝らして見回す。

するとゆっくり総司が顔を上げて俺の方へと身体を向けた。
それによって月の光が総司の姿をはっきりと照らす。

「……そ、うじ……?」

総司はその身体を血で濡らし、虚ろな瞳で俺の方を見た。

その瞳は血の色と同じ。
赤い色をしている。
いつもの総司の瞳の色とは違う赤い瞳……

部屋の中に吹き込んだ風が総司の髪を揺らす。
その髪の色は……
真っ白だった。
それはつまり……



羅刹の色―――



視線を下へと下ろせば。
枕元には変若水が入っていたと思われるびいどろの容器が転がっていた。

「……何故……?」

疑問の声が零れる。

状況について行けず混乱する頭。

何故総司が変若水を持っている?
何故総司はそれを飲んだのだ?
何故総司は羅刹になど……

「……何故……?」

言葉が出て来ない。
氷のように冷たく固まってしまった己の身体で。
ただじっと目を見開いて総司の姿を見つめる。

ふと髪の色が元に戻り、翡翠の瞳が揺れた。

「は、じめく…ん……」

総司が羅刹の姿から元の姿に戻った事に少しだけ息を吐く。
しかしまだ混乱は収まらない。

総司が驚いている俺の姿を静かに見つめながら。
そっと口にした言葉。

「僕は、まだ……戦える」

その言葉の続きは決して音にはならず、俺へと告げられる事はなかったが。
無音の言葉が俺には聞こえたようだった。



僕はまだ新選組の“剣”として戦える―――



だから―――



ここに居させて―――



ふらりと総司の身体が揺らいだ。

「げほげほっ……」

そしてまた嫌な咳をして。
そのまま崩れ落ちた。
俺は慌ててその身に駆け寄り支える。

覗き込めば総司は再び意識を失ったようだった。

「総司……」

副長に言われた言葉に傷つき。
羅刹となってでも新選組に居続けたいと願い。
変若水を飲んだのか。



総司の辛さをわかってやりたいと思いながらも。
俺はわかっていなかったのだろうか。
そこまで思いつめているとは知らず。
取り返しのつかない方へと進んでしまった。



後戻りは出来ない。



「なあ……どうして俺はいつも総司を傷つけちまうんだろうな……」

いつの間にいたのだろうか。
気づけば部屋の前に副長が立っていた。

部屋の中の惨事を見つめ、意識のない総司へと視線を注ぐ。

江戸に帰れと言った事を後悔した所でどうしようもない事だ。
このまま労咳の総司をここに置いておけばもっと病は悪化してゆくだろう。
それを考えたら新選組から遠ざけようとするのは間違っていないはずだ。

それでも。

思いつめた総司を止める事が出来なかった事は、とても悔しかった。
副長も俺と同じ気持ちなのだろう。
苦渋に満ちた表情を浮かべ、ただ静かに総司の姿を見つめている。



総司は少しでも新選組の役に立ちたい、新選組の剣としてあり続けたいと。
その一心で生きていた。
それを知っていながら……
こうなる前に気づいてやれなかった己に心の中で叱咤する。

もっと総司に俺たちの思いを伝えられていたら。
未来は違ったのだろうかと唇を噛み締めた。

確かに総司の剣術の腕は素晴らしい。
新選組にとって大切な“剣”である事は間違いないだろう。
だが。
総司の存在価値は決してそれだけではないはずだ。
総司は局長からも副長からも大切な“弟”として可愛がられているし、俺も総司に恋情を抱いてしまっているのだ。
“剣”として存在出来なくなったとしても、総司には十分価値があるはずだった。

それなのに。
総司は。
人としての生を捨ててまで。
新選組の“剣”であり続けようと変若水を飲んでしまったのだ。

変若水は確かに本来人が持つ以上の力を与えてくれる。
しかし完全な薬ではない。
力を得る代わりに失うものも多い。
昼間の活動が困難になるのもあるが。
それよりも不安な要素は。
理性を失くし血に狂う化け物となり果てるかもしれない危うさ。
もしかしたらそれ以外にも欠点があるやもしれぬ代物。

その危険性を理解した上で総司はこの薬を飲んだ。
それ程に追い詰められていたという事。

俺は気を失ってしまった血まみれの総司の身体をそっと抱きしめた。



「……どうやら変若水は病までは治してくれないようですね……」

また突然声がして。
俺は顔を上げる。
そこには冷たい瞳をすっとこちらへ向けている山南さんが立っていた。
総司が喀血した時にも似たような冷たい表情をしていたが。
今の山南さんはそれにも増して悲しげな表情をしていた。
だが決して憐れみなどではなく。
向ける視線は冷酷で鋭い。
あの時も嫌な感じがしていたが深く気に留めずにいた。

俺ははっとして山南さんを無意識に睨みつけた。

まさか……
総司に変若水を渡したのは……

ふつふつと怒りの感情が渦巻いているのが己自身感じられる。
どこかで確信したのかもしれない。
山南さんが総司に新選組に居続けるための手段を示したのだと。

山南さんのまとめる羅刹隊の一員として生きる道を―――

「沖田君なら、羅刹隊の中でも最強の剣士として活躍出来るはずだと思ったのですが……」

問い質さずともその口からは当たり前のように紡がれた答えに。
総司を抱く腕が震えた。

「病を抱えたままでは苦しみは続いてしまいますね。私はその苦しみから解き放ってあげたかったのですけど……」

悪気はない。
それは総司のためにした事だと主張するように告げられる。

山南さんも総司を苦しめたかったわけではない。
それは理解している。
それでも……
こんな道を総司に示す事を選んだ山南さんに憎しみにも似た感情が芽生えてしまった。
土方さんも山南さんに今にも掴みかかりそうな程恐ろしい形相で拳を握っている。

戦いたいと願う総司の望みを叶えるための手段はそれしかなかったのだろう。
だが俺や副長の願いとはまったく食い違ってしまう選択。
山南さんと俺たちではどこか考え方が異なるのだ。

どちらが総司のためなのか。
どちらが総司にとって幸せな道なのか。
それはわからない。

けれどどちらを選んでもきっと苦しみは消えないのだ。



俺はこれから総司のために何をしてやれるだろうか?

そっと口づけを落として己に問う。

きっとこれから先。
羅刹となった事で総司は再び剣を取って戦うのだろう。
その身が尽きるまで。

俺に一体何が出来る?

おそらく出来る事など本当に僅かな事しかない。
それでも俺は。
総司のそばにいよう。
この身が尽きるまで。
俺は総司を支えていきたい。



総司が“剣”として生きる道をこれからも進むならば。
俺はその刃を休めるための“鞘”になろう。
いつでもこの両腕で抱きしめてやれるように。
この場所は総司のために……



血まみれの総司の身体をしばらく無言で抱きしめて。
俺は一人心の中で誓う。



この世で誰よりも大切な……
たった一人の恋人なのだから。





Fin.





10000hitリクエストの斎沖SSです。
『沖田さんが病を苦にして羅刹をなるお話』というリクでしたが…
お待たせしすぎで申し訳ありません。
しかもリク内容と違う…(汗)
本当にスミマセン…
強くて儚い沖田さんがお好きだと仰られていたのに…殆ど出番なしですね。
ごめんなさい。
これ以上詰め込むと長編になりそうなのでこれが限界のようでした。
こんな駄文でよろしければさくら様に捧げます。