犬と猫
監察方という仕事は常に周りに気を配っていなければならない。
上からの命令で様々な場所に潜入し、捜査する事も多い。
浪士組の敵の懐に潜り込み、有益な情報を得るため、危険な場所に赴く事もある。
だがそれだけではない。
我々は浪士組の外敵を調査するだけでなく。
内部の事にも目を向けているのだ。
隊士たちがきちんと役目を果たしているかどうかを見張る役目もあるだろうが。
敵方の間者が紛れていないとも限らない。
監察方とはそれを探るための役職でもあるのだ。
だから我々は常に隊内の様子にも鋭く目を光らせ感覚を研ぎ澄ませている。
故に。
他の者は気付かない些細な事にも気付いてしまう。
それは芹沢局長が拾って来て、扱き使っているらしい男。
隊士でもない彼がここに身を置いている事に最初は嫌悪感を抱いていた。
監察方の役職を置く事になった際。
芹沢局長が一方的に見張られているのは気分が悪いからという理由で自分の小間使いに監察方の手伝いをさせると言い出したらしく。
井吹は監察方の一員という扱いになったのだが。
始めの内はいい加減で、同じ監察方としてはその仕事に対する心構えを許せないと思っていた事もあった。
けれど。
共に仕事をしている内にいつの間にか仲間意識が芽生え始めていた。
多少は井吹も監察方としての自覚が出てきたような気さえして。
今では気軽に思った事を口にし合えるような仲になっていた。
その彼の様子が最近おかしい。
そう思っていた。
何やら考え込む時間が増えた気がするのだ。
何か一人でぶつぶつ言っている姿すら見られ。
悩みでもあるのかと心配になっていた。
もし何か悩みがあるならば力になれないだろうか?
そう考えていたある日の事だった。
仕事を終えて屯所へと戻って来た俺は。
ふと八木邸で見慣れた井吹の後姿を見かけ立ち止まる。
周りの様子をえらく気にしているようで。
辺りをきょろきょろと見回していた。
はっきり言って傍から見たらかなりの不審人物だ。
監察方としては見過ごせない程に。
誰かに知られたくない何かがあるというのだろうか?
まさかとは思うが芹沢局長の横暴についに耐えきれなくなって浪士組を逃げ出そうとしているのではないか?
そんな考えが過り。
俺は声をかける事なく静かに井吹の行動を見つめていた。
もしも浪士組にとってよからぬ事を考えているようであれば。
監察方として副長に報告しなければならない。
少しばかり心を許した相手であったから。
彼が浪士組と敵対するような事があれば裏切られたような気分にもなる。
ごくりと唾を飲み込み、緊張した身体を。
気配を殺しながら井吹の方へと近づけ。
彼の様子がよくわかるような角度で盗み見た。
井吹は足音を殺しながらそっと八木邸の縁側へと歩を進めていた。
ずっと周りへの警戒心を持ったまま。
視線がとある一点に集中する。
一体井吹は何をそんなに真剣な顔で見つめているのだろうか?
彼の視線の先を辿るように俺も視線を動かしてゆく。
そして。
その視線の先に見えたのは。
「……沖田さん?」
ぽろりと小さくその名を呟いて。
目を見張る。
井吹の視線の先には縁側で横になっている沖田さんの姿があったのだ。
どうやら晴れた午後、太陽の光がぽかぽかと気持ちよく、眠気を誘ったのだろう。
うとうとというよりはもう既に深い眠りに落ちているようなその姿。
普段はおどけたり人をからかったりどこか人を食ったような刺々しい空気を纏っていたりする事も多いその人は。
猫のように気まぐれで、上司として接するにはどうにもやりにくい相手である。
しかし、こうして無防備な姿を晒して眠る彼はどこか幼く見えて。
普段とは違う印象を与える。
珍しいものを見たな。
と。
少し微笑ましくもなったが。
当初の問題を思い出し、気を引き締めた。
そう。
井吹の事だ。
何故気配を殺し、誰にも気づかれぬよう気を張りながら沖田さんを見つめているのだろうか?
そして何故眠っている沖田さんに静かに近づこうとしているのだろうか?
俺はある可能性に思い至り。
はっとする。
まさか―――
普段は隙のない沖田さんの無防備な姿を見て。
その命を奪う好機としたのではないか。
眠っている所で襲いかかり、殺すつもりなのではないか……
嫌な汗が額から滲み出る。
もしそうであれば。
偶然とはいえ居合わせた自分は止めなければならないだろう。
幹部が狙われている所を黙って見過ごすなどそれこそ士道不覚悟だ。
ゆっくりと。
俺は井吹に近づいて。
鋭い眼差しで彼を睨む。
井吹が俺に気付いた様子はない。
ただ無言で沖田さんへと近づいて行く。
沖田さんは目覚めない。
気配に鋭いはずなのだが、余程疲れているのか。
いや、それだけじゃないかもしれない。
気付かない理由は。
井吹からまったく殺気というものが感じられないのだ。
沖田さんに向けられる憎悪の感情も感じられない。
もし殺すつもりで近づいているのにその気配を見事に隠しているのだとしたら井吹はかなりの人物であろう。
しかしである。
井吹とそれなりに共にいたのだ。
実力を隠していたにしては演技が上手すぎる。
そんなはずはないだろうと思う。
やはり井吹に沖田さんを殺す気などさらさらないと何処かで確信していた。
井吹はそのような事をする人間ではないだろう。
我々に牙を剥くとは到底思えない。
では何故人目を憚って沖田さんに近づこうとしているのだろうか?
その疑問は膨れ上がるばかりで。
己には予想出来ない。
一体何だというのだ?
答えが知りたくて疼く。
じれったくなる気持ちを抑え、そっと井吹が深い夢の中にいる沖田さんに近づいて行く姿を見つめた。
沖田さんのそばまで辿り着いた井吹は目の前の開かれた襖の中を覗き込んで部屋に誰もいない事を確認するとするりと忍び込んだ。
あそこは沖田さんたちが使っている部屋のはず。
勝手に入り込むなど失礼ではないかと思いつつ。
部屋を出て来た井吹が掛け布団を手にしていたのを見て彼が何をしたいのか悟った。
そしてそれは俺の思った通り。
縁側で眠りについている沖田さんへとそっとかけられた。
風邪をひかぬようにとの配慮からの行動なのだろうか。
だとしたらあそこまでこそこそする必要もない気がするのだが。
他にも何かあるのだろうかと。
もうしばらく黙って様子を見る事にした俺は息を潜めて、気持ち身体を前のめりにしながら覗き込む。
何も言わず、起こさぬよう足音さえも立てず、気を付けながら沖田さんの横へと腰を下ろす井吹。
緊張したような面持ちで。
少し頬を赤く染めていた。
そして静かに手を伸ばす。
さらりと癖のある髪を軽く撫でて。
寝顔を間近で覗き込む。
その表情は今まで見た事もない程穏やかだった。
捻くれたようなぶすっとした顔ばかり見せる井吹が。
まさかあんな顔をするとは。
しばらく時の流れが急に遅くなったかのような錯覚すら覚えた。
あれは間違いなく、特別な感情を持っている。
しかもあの沖田さんに対して。
信じられない光景だ。
だが沖田さんへ向けられる眼差しから。
導き出された答えは最近彼の様子がおかしかった理由と繋がって。
すとんと胸の内に下りた。
ああ。
様子がおかしいとは思っていたが。
思えばそれは必ず沖田さんがそばにいる時、もしくは沖田さんの話題が出た時だったような気がする。
そうか。
ようやく納得して。
俺は緊張を解いて監察方としての責務から監視するのではなく。
同じ監察方の仲間として力になってやりたいと応援する気持ちで井吹を見守るように見つめた。
あの様子。
近頃悩んでいた姿を見ても。
おそらく井吹の片想いに違いない。
沖田さんが井吹に振り向く事があるかどうか。
はっきり言ってかなり難しいだろうと思う。
力にはなってやりたいが。
果たしてどうすればいいのか。
難しい顔をしながら俺は小さくため息をつく。
すると俺の足元でカサリと音がした。
音を立てまいと気を張っていたというのに。
一体何だと思い足元を見れば一匹の猫。
そしてその猫は俺と視線が合った瞬間駆け出して……
八木邸の縁側へと向かって行く。
「あ……」
危ないと思った時は既に遅し。
「にゃあっ」
猫の鳴き声が響いた瞬間。
「どわぁ!?」
井吹にまるで体当たりするかのように突進した猫。
驚いた彼はそのまま。
眠っていた沖田さんの方へと倒れ込む。
「……っ!?」
それは事故だ。
井吹がわざと狙ったわけでもない。
それはわかる。
だが。
あまりの事に俺は絶句した。
倒れ込んだ井吹の唇が。
眠る沖田さんの唇へと当たっていたのだ。
事情を知らぬ者がこの場面だけを見たなら。
井吹が沖田さんを押し倒して唇を奪ったと勘違いされそうな光景だ。
背筋に冷や汗が流れたが井吹はおそらく俺以上に焦っているに違いなかった。
さすがに目を覚ました沖田さんが己に覆い被さっている井吹を見て。
「何してるの?」
冷たい非難の声をかける。
「わ、悪い!わざとじゃないんだ!」
顔を真っ赤に染めながら。
俺には聞こえないが心臓の音をばくばくと激しく鳴らしている事だろう井吹が弁明しようと必死になっていた。
「ね、猫がだな……」
「ふざけないでくれる?」
ばしんと。
頬を叩き、覆い被さる身体を勢いよく退ける沖田さんは。
かけられていた布団にも気づく事なく立ち上がって井吹を見降ろした。
蔑むような瞳でしばらく見つめた後。
井吹から殺気の類はないため、とりあえずは問題がないと判断したのかくるりと踵を返すと。
「何しようとしてたか知らないけど、寝てる時に勝手に触らないでくれる?」
抜き身の刀で胸を刺すかのように冷たい言葉を浴びせて。
そのまま機嫌悪そうに去って行った。
「…………」
頬に手形がくっきりとついたその顔で呆ける井吹は。
沖田さんが去って行った方を寂しそうに見つめていた。
それはまるで捨て犬のようにも見えて。
可哀相になってくる。
だが井吹は何かを思い出すようにはっとして己の手をそろそろと唇にあてた。
現実に起こったそれを確かめるように。
その姿はどこか幸福を感じているようにも見えたのでとりあえず同情する気持ちは半減してゆく。
「運がよかったのか悪かったのか……」
どう判断したものか。
力なく頭を掻いた。
「にゃあ」
近くでまた鳴き声が聞こえる。
視線を下へと向ければ。
再び俺の足元へと戻って来たその猫は。
沖田さんの髪の色に似た茶色の癖っ毛を足で繕いながら俺へと視線を寄こした。
まるで悪戯に成功して満足したかのような顔。
沖田さんの分身じゃないかと思える程似ていて。
俺は思わず苦笑する。
やれやれ。
井吹の恋は前途多難そうだ。と。
Fin.
第三者視点で拍手SS。
山崎さんから見た龍之介と沖田さんのお話。
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