契り





「ヒノエ……」

それまで沈黙が支配していた部屋の中で、柔らかい声がヒノエの耳をくすぐるように零れた。

「ん?」

弁慶が目の前にいる甥っ子に視線を送ってもヒノエはそちらを見ようとはせず、生返事だけが送り返される。
困ったような顔で、しかしどこか嬉しそうにも見える顔で弁慶はヒノエを見つめた。

「何をしているのですか?」

そう問えば、

「べっつに〜」

っと軽く返されてしまう。
ため息を一つ吐けばまた部屋に沈黙が訪れる。



ヒノエが弁慶のいるこの部屋に来訪してから一時が経とうとしているが、何を話すでもなくただ黙って一人書を読んでいた弁慶の後ろに座っていた。
最初にヒノエがこの部屋にやって来た時に「何か用ですか?」と問いかけたのだが何もないようだったので「君が用もないのにわざわざ叔父の所へ来るなんて怪しいですね」と投げかけてみたら「他の連中が騒ぐから煩くてね……静かな場所に来たかっただけだよ」とだけ返されたのだ。

やや不審に思うが、あまり気にしても仕方がないと考え、今まではヒノエの事は気にせずに一人黙って書を読みふけっていたのだが……

一息ついた時に髪に何やら違和感を感じ振り返ってみると……
あまりにも静かだったのでてっきりヒノエは昼寝でもしているものかと思っていたのに予想に反する状況だったため、弁慶は唖然とした。
ヒノエの行動に少々驚きはしたが、あまりそれを表に出さず、問いかけたのが先程の事。
しかし何をしているのかと聞いても明確な答えは返ってこず……


どうしたものかと弁慶はずっとヒノエを観察するように見ていた。
先ほどからずっと弁慶の長い髪をいじっているのだ。
ヒノエの指にくるくると絡めては解き絡めては解き、その動作の繰り返し……
それは幼い頃、ヒノエがまだ無邪気に弁慶に懐いて遊んでいた頃によくやっていた事だった。
長い髪をいじるのがおもしろいのかいつまでも飽きる事無く繰り返されていた動作に懐かしさを覚える。まあ幼い頃に比べれば髪をいじる手つきはかなり違うが……
今いる場所が熊野であるから余計に懐旧の情がわくのかもしれない。

しかし今は昔とは違う。
会えばすぐに悪態をつく甥っ子が子どもの頃と同じ行動を始めた事に少々戸惑っていた。

急にどうしたのだろうかとヒノエの動作をじっと見つめていると……
やがてヒノエの指がぴたりと止まり……

「ヒノエ……?髪をあまり引っ張らないでください……痛いじゃないですか」

今まで指先で戯れていただけの動作から突然引っ張る動作に変わる。
抗議の声には耳をかさずにくいくいっと軽く髪を引っ張るヒノエは、自分の手にくるくると巻きつけた上ぎゅっと握り締めている一房の髪をじっと見つめながら何やら悪戯を考える嫌な笑みを浮かべていた。
その笑みを見て、幼い頃のヒノエを思い出して懐かしんでいた自分が愚かだったと弁慶は思った。
成長した今のヒノエが幼い頃の純粋な子どもの頃と同じはずはなかったのだ。

何か企んでいる……

「なあ」

低くずしりとしたヒノエの声が耳に届く。
ずっと髪に集中していたヒノエがようやく顔を上げ、弁慶の目を見て口を開いたのだった。
悪魔のような笑みをふっと消したかと思えば普段女性にやたらと声をかけては口説く彼のおちゃらけた態度とは違い真剣な表情で、そして真剣な声でいつもの口説きの言の葉を口にする。

「オレのものになりなよ」

ようやく口を開いてくれたかと思えばこれだ。
弁慶はヒノエの言いたい事がわからずに無言でそのまましばらくの間ヒノエをじっと見つめていた。
顔は真剣そのもの、ふざけた様子はない。
だが言っている内容はあまりにもふざけている。
そのヒノエの態度と言葉との差に、どう対処していいものか悩みに悩んだ。
だがとりあえず思った事を率直に言った方がよいだろうか?と考え、

「何をふざけた事を言っているのですか?」

と言ってやれば、ヒノエは真剣な表情のままふっと鼻で笑い、

「本気なんだけど?」

と返される。

「とち狂った事を言って僕が困る所を見て面白がろうって魂胆ですか?」

さらに言ってやると、

「悩ませて困らせてるのはオレが真剣なのに信じてくれないあんたの方だろ?」

とヒノエがくいっと掴んでいた髪を引っ張って弁慶を引き寄せ、顔をもろに近づけてそう吐き捨てた。
突然に引っ張られてあまりにも顔が近すぎる距離まで引き寄せられたために唇と唇が触れ合ってしまいそうで、弁慶の心臓がどきっとした。
髪が引っ張られたままでそのままの距離をしばらく保つ羽目になり鼓動が加速していく。
だがそんな動揺を甥っ子に悟らせまいと必死に平常心を保とうと心がけてみる。
ここで動揺している事が知れればヒノエをおもしろがらせるだけだと思ったのだ。
触れそうで触れないその僅かな距離で自分の姿が映るヒノエの瞳をじっと見つめる。
いや睨むと言った方が正しいかもしれない。
弁慶はヒノエが何を考えているのかを必死で探ろうとしていたのだ。
だがヒノエの方は弁慶がどんなに隠そうとしても動揺しているであろう事はお見通しだった。
滅多な事ではなかなか本気で動揺する様子など見せない相手の心を自分が揺さぶってやっている事が嬉しくなってヒノエは口の端を吊り上げた。
いつもの穏やかな表情をもっともっと崩してやりたくなる。
悪戯な笑みを浮かべ始めたヒノエを見て弁慶はため息を吐いた。

「まったく……こんな事して僕をからかって……僕が困るのを見て面白がっているのでしょう?いい加減にしてくださいよ……」

真剣な表情が消えて、本気ではないと確信したらしい。
呆れたような口調でもはや動揺も何もない。

「……だから本気だって言ってんだけど?信じちゃくれないって事か?悲しいねぇ……」

一応本気である事を主張しつつも引っ張っていた髪を緩めて距離を取り、口調は説得力ゼロの戯けた物言いだ。

「君は誰彼構わずやたらと口説く節操なしだとは思っていましたが……まさか女性だけでなく男にまでとは思いもしませんでしたよ。驚きですねぇ」
「……節操なしとは酷いね。オレは今も昔もあんた一筋なんだけど?」
「一体いつまでこのふざけた会話を続けるつもりなんです?野郎には興味がないと言っていたでしょう?」
「あんた以外には興味ないね……女も含めてね……」
「よく言いますね……女性を見ればすぐに飛びついて口説き出すくせに……」
「ただの遊びだよ。わっかんないかねぇ。これだから鈍感な奴は困るよな。まああんまり敏感すぎるのも困るけどさ……」

ヒノエが手のひらに巻きつけていた髪を解くとその髪を今度は自分の肘より少し上の二の腕に巻きつけ始める。

「ヒノエ……一体何がしたいんです?」

2、3回くるくると巻きつけた後、最後に解けないように結び、縛りつけたヒノエは満足げな顔をしていた。
海の男というだけあって縄を縛るのが得意であるヒノエは、弁慶の髪を自分の腕に結ぶのも見事な手際であった。

「ふふっ……ちょっとした勝負をしないかい?」

挑戦的な笑みでヒノエは弁慶の方を見て言う。

「勝負?」
「そう、負けた奴は勝った方の言う事を何でもきくっていう」
「それはまた急に……何を企んでいるのですか?」
「別に急じゃないさ。さっきからずっと考えていたからね」
「君はそうかもしれませんが僕にとっては急です……」

弁慶は何を考えているのかを探ろうとヒノエの目をじっと見つめていた。
何を企んでいるのかはわからないが悪魔のような笑みが絶対何かあると物語っている。
この勝負を受ければヒノエの思い通りに進むのであろうと予測できるのでどうしたものかと弁慶は思考をめぐらせた。

「どうだっていいだろ?やるのかやらないのか……どっちなんだい?」
「……君から勝負をしかけてくるなんて、裏がありそうですね……できればご遠慮したいかな」
「ふ〜ん逃げるのかい?」
「そんな挑発には乗りませんよ。君が何かを企んでいるのはわかっています。ここで勝負を受けたらそれこそ君の思う壺でしょうからね」

ヒノエは自分の性格を読んでいる弁慶に対して予想通りの反応だと心の中で思っていた。最初から簡単に自分の話に乗ってくるような奴じゃない事をヒノエは知っていたのだ。
だがこちらには切り札があるとヒノエはにやりと唇を吊り上げた。

「ふふっ、鎌倉から熊野の協力を取り付けてくるよう言われているんじゃなかったのかい?」
「……何が言いたいんです?」
「あんたが勝ったら源氏に協力してやるって事さ」

そう。
今この熊野にやって来たのは頼朝から命を受けたからだ。
頭領に会って熊野の協力を得るのが目的なのだ。
頭領とは弁慶の目の前にいるヒノエの事なのだがまだ神子たち一行には隠している。
正体を知らないため、頭領が神子に一目惚れしたとかいう噂を聞いて望美にはお姫様らしくしろと九郎は言っていた。
頼朝の命令を果たすため、九郎は必死なのだろう。
弁慶もそんな九郎のために協力できる事ならしてやりたいと思っているのだ。

ヒノエを動かすにはそれなりの説得が必要だ。
まず負ける戦などしない。それがヒノエなのだ。
勝てると確信できなければ源氏に協力などしないだろう。
兄に頼むという手も考えたが今の頭領はヒノエなのだ。
兄を説得したところでヒノエの心を動かせなければ意味がない。
そのヒノエが勝ったら協力すると言ってきているのである。
何か企んでいるとはいえ簡単に断るのももったいない話かもしれないと弁慶が考え始める。

「……どうだい?やる気になった?」

考え込む弁慶を覗き込んで問う。
ヒノエは早くこの勝負とやらを承諾してほしいようだ。

「君が……負けるような勝負を自分から持ちかけてくるなんて事ありませんよね?どうせ僕には勝ち目のない勝負をやらせるつもりでしょう?」

ヒノエの心を探るようにそう返した弁慶はやや視線を逸らせてヒノエの出方を見る。
するとヒノエが弁慶の視線を追いかけて合わせると顔をほんの少し近づけて笑いながら答えた。

「それだけオレは必死だって事だよ。あんたの事を手に入れられるなら何だってするさ」

思いっきり告白の意を込めた言葉も弁慶にはあまり通じておらず空しく静かな空気の中で消えてゆく。

「……」

2人だけしかいないこの空間で少しの間静寂が流れ、やがてヒノエは悲しくなってため息を吐く。

「……じゃあ勝負の内容を聞いてからやるかどうか決めればいい。あんたに勝ち目があるかどうか自分で判断すれば問題ないだろ?」

真面目に告白しても想いが通じないもどかしい気持ちを抑えて勝負の内容を口にした。
先程ヒノエが腕に巻きつけ結んだ弁慶の髪を制限時間内に解ければ弁慶の勝ち、解けなければヒノエの勝ち。それだけだった。
確かにしっかりと結ばれてはいるものの言われた制限時間は解くのに無理のない余裕のある時間だ。それだけならばヒノエより弁慶の方に分がある気がする。



「……本当にこの結ばれた髪を解くだけでいいんですか?」

意外と簡単な勝負に怪しさを感じ、何か裏があるのではないかと疑ってかかる弁慶にヒノエは髪が結ばれていない方の手を口元にあててウインクをしながら頷いた。

「簡単だろ?やる気になったかい?」

結ばれた髪を解くだけなら弁慶にも勝ち目があるし、寧ろヒノエに不利かもしれないと考え始め、弁慶は「そうですねぇ……」と唸りだす。

勝てる気がする……
これで熊野の協力が得られるのならヒノエの持ち出したお遊びに付き合うのも悪くはないのかもしれない。

「……わかりました。この勝負受けて立ちましょう。それで熊野の協力を得られるのなら……」

ついに勝負を受けると口にした弁慶にヒノエは内心かなり喜んでいた。しかしあまりにあからさまに喜んではまた怪しまれてせっかくの勝負をやめると言われてしまいそうで必死に隠してみせる。
もっともヒノエは勝負を受ける理由に少々不満を感じはしていたので素直に喜ぶ気にもなれなかったのだが……

「ふふっ……そうこなくちゃ。やると言ったからにはもうやめたなんて言わせないからな?」

ヒノエは髪が結ばれた腕を弁慶の前に差し出して見せた。

「……君が僕に何をさせたいのかは知りませんが……これくらい解けますよ。馬鹿にしているのですか?」
「別に……馬鹿になんてしてないさ。まったく捻くれた考え方をする奴で困るよな……」
「……君が勝負で不正ばかりしているのがいけないんですよ。普段の行いを考えたら疑うのは当然です」
「ま、勝負は勝つためにするものだからねぇ?誰も負けるつもりでしないだろ?自信がなくたってやるからには勝とうと必死になる。それが勝負だ」
「……君の場合はインチキなんですよ。人の目を盗んで細工したり……そんなのは正しい勝負事とは言えないでしょう?」
「この状況で何か細工されてると思うわけ?」

目の前に差し出した自分の腕を軽く上下させて見せながら口笛を吹いたヒノエはやるなら早く勝負を開始しようぜと急かした。

ヒノエの腕に結ばれた自分の髪をじっと見つめ、確かに何か細工がされているわけではない事を確認する弁慶。

そしてようやく観念したように弁慶が頷くと、ヒノエは開始の合図をして時間を数え始める。

弁慶は数え始めたヒノエの声を聞きながら落ち着いて腕に巻かれた髪に両手を伸ばした。



―――――この髪を時間内に解けば熊野の協力を得られる―――――



そんな気持ちで油断していた弁慶の腕を片方、髪が結ばれていない方の手でヒノエががしりと掴む。

突然腕を掴まれてびっくりした弁慶が珍しく動揺を隠しもせず目を見開いて甥っ子の悪戯な笑みを浮かべた顔を見た。
その間もヒノエは時間を数えている。
弁慶は慌てて掴まれた腕を振り解こうとするが、意外とヒノエの力は強く簡単には逃れられなかった。
幼い頃は可愛らしかった甥っ子がいつの間にか自分よりも強い力を持つようになっていた事に驚く。

まだまだ子どもだと思っていたのにいつの間にこんな力を……
熊野水軍の頭領の名は伊達じゃないといったところか……

しかし弁慶には感心している余裕などありはしない。
今は勝負の途中なのだ。
早く結ばれた髪を解かなければ負けてしまう。

「ヒノエ……離してください。これでは解けないじゃないですか」

弁慶は強い力で腕を掴むヒノエを睨みつけながら言い放った。
しかしそんな事はお構いなしに数をひたすら数え続けるヒノエ。
仕方がないので掴まれていない方の手を使って何とか解こうと片手だけでも結ばれた髪に手を伸ばす。
だが、今度は髪が結ばれた方の手で弁慶の伸ばしたもう片方の腕も捕まえられてしまった。
両手を掴まれて身動きが取れなくなってしまった弁慶はさすがに焦り始め声を荒げた。

「ヒノエ!どういうつもりです!?邪魔するなんて反則ですよ!」

そんな弁慶の焦った姿を見てヒノエは意地悪な笑みを浮かべながら数を数えるのを一旦やめて一言。

「オレはこの腕に結んだ髪を解けと言っただけで邪魔しないなんて言ってないけど?」

「なっ!?」とうろたえた弁慶にヒノエはもう一言言い放つ。

「いいねぇ……あんたのその慌てた顔、普段はなかなか拝めない顔だ」

弁慶はそんなヒノエの様子を見てやられたと思いつつ、諦めの悪い無駄な足掻きに出る。
腕の力で振り解けないなら足で蹴り飛ばしてやろうとばたついた。
しかしヒノエは「いってぇな…」とこぼした後、突然弁慶を押し倒して床に押さえつけてしまった。
時々結ばれている髪が引っ張られる感覚で痛みを感じたがそれどころではない。
まさか男に、しかも甥っ子に組み敷かれるはめになるとは思いもしなかっただろう。
結構屈辱的な光景だ。

弁慶が抵抗できないよう全身で押さえつけたヒノエは再び数を数え始め、やがて終了の合図をする。

「ふふっ。どうやら時間のようだけど、まだ解けてないみたいだね。オレの勝ちかな」

そう言い放ちながらも未だに押さえつける力を緩めず、弁慶の上に乗っかったままこの状態を楽しむヒノエ。
弁慶は言葉を失くして呆然とただただ自分の上にいる甥っ子の勝ち誇った姿を眺めるだけだった。
勝負が終わるまではじたばたしていたがもはや脱力しきってしまって殆ど動かない。



「約束だ」

弁慶の上に乗っかったままの体勢でヒノエが言った。

「オレの言う事を何でも聞いてくれるだろ?」

最初の勝ち誇ったような姿はどこへ行ったのやら……
言う事を何でも聞いてくれるだろと口にしたヒノエは意外にも悲しそうな表情で弁慶を見つめていた。
何かを必死で懇願するかのように緋色の瞳が揺れる。

勝負をする前、「オレのものになりなよ」と真剣な表情で口にしたヒノエの姿に更に哀愁を含めたような切なげな、ふざけている様子もなくとても演技とも思えない表情と声に弁慶は自分が負けた事を忘れて目をぱちくりさせた。

「なあ……オレのものになってよ……」

震えたような掠れたような声でヒノエの素懐を口にする。

「熊野に帰ってきて……ずっと……オレのそばにいてよ……」

いつも会えば悪態をつく甥っ子の言動とは思えない。

「信じられないかもしれないけど……オレは今も昔も……ずっとあんたの事が好きなんだ……」

演技ではない……ふざけているわけでもない……嘘なんかじゃなくて……
これはヒノエの本当の気持ち……?

今までただふざけて戯言を口にしていただけだと思っていた事も……?

弁慶はどうしたらよいのかわからずにいつもと違うヒノエの顔を見上げていた。

「オレが勝ったんだ……拒否なんてさせないよ?」

自信にあふれた物言いとは程遠く、弱弱しい言い方もいつものヒノエらしくない。
弁慶に断られる事を酷く恐れているようだ。

「ヒノエ……」

言葉が見つからずようやく彼の名前だけ何とか口にした弁慶。

「嫌だって言ってもオレは……無理やりにでも掻っ攫っていくから……」

力ない言葉も嘘偽りのない言葉……
ヒノエがそう言うのならおそらく実行するのであろう。



「ヒノエ……僕にはやらなければならない事があるんです。だから……」

ようやく口を開き口にした弁慶の言葉もやはり弱弱しくて……
ヒノエが本気ならなるべく傷つけないように断ろうと言葉を探しているようだ。

「だから……?だから何?」

断らせない。
絶対に断らせるものか……と言いたげにやや低い声でヒノエはそう口にする。
弁慶はまた更に言いにくそうに言葉を詰まらせてしまった。
しかし言わないわけにもいかず、何とか続ける。

「今、熊野に戻ってここで暮らすなんて僕にはできないんですよ……」

弁慶も辛そうな表情で断りの言葉を口にした。
その言葉の後はお互いしばらく黙り込んでしまう。
静寂が支配する部屋の中、二人の呼吸の音だけが僅かに漏れ出していた。



やがて遠くからヒノエでも弁慶でもない第三者の声が微かに聞こえてくる。
他の八葉や神子たちの声らしい。
もしかしたら今まで外にいた者たちが宿に戻ってきたのかもしれない。

二人のいる部屋は別にヒノエの部屋でも弁慶の部屋でもない。
他の者が入ってくる可能性も十分ありうる。

ヒノエは弁慶の上からそっと降りるとあっという間に自分の腕に結ばれていた髪を解いた。
そうして未だ起き上がらない弁慶に向かって悔しげに言い放った。

「そんなに……あの……源氏の大将さんが大事かよ……」

突然九郎の事を持ち出されて驚いた弁慶は何故ヒノエがそんな事を言い出したのかと考え込む。

「いつもあいつにくっついて回って……いつもそばにいて……あいつの為にだけ行動して……この勝負だって……あいつの為に受けたんだろ?何でなんだよ?お前はあいつがそんなに大事なのかよ……」

ヒノエがそう口にした事で弁慶が気づく……。

ヒノエはずっと九郎に嫉妬していたのだと……。

「ヒノエ……」

弁慶はようやく起き上がると自分の横に座るヒノエの肩にぽんと軽く手を置いた。

「僕はただ……この戦を早く終わらせたいだけなんです……だから……」

ヒノエは唇を噛み締めながらその言葉を聞くと、突然肩に置かれた手を掴んで引っ張った。
弁慶の身体を引き寄せて思いっきり口付けをしてやる。

驚いたのは弁慶だ。突然の事で動揺し、息が出来ない。

「っ!?」

また押し倒されるのではないかというヒノエの力に必死で耐える弁慶はヒノエの口付けを拒否する事ができず甘んじて受けるしか出来なかった。

遠くで九郎らしき人物が弁慶の名を呼んでいるのが聞こえる。
近くに姿の見えない弁慶を探しているのだろう。

唇を離しながら「ちっ」っと舌打ちをしたヒノエ。
嫉妬心を持っている人物が今この時に現れるのが気に入らなかった。

またあいつに弁慶をとられる……
せっかく二人だけの時間を手に入れたのに……

足音が近づいてきた。
弁慶の名を呼ぶ声と共に……。

部屋の戸が開けられるとそこには声の主である九郎が立っていた。
ヒノエは九郎を睨み付けると立ち上がり、屈み込んで弁慶の耳元でそっとささやくように言った。

「じゃあ戦が終わったら……その時は熊野に帰って来いよ……。約束だ。拒否権なんてあんたにはないからな」

そうして九郎を再び睨み付けながら横を通り過ぎようとしたヒノエに弁慶が言葉を投げかけた。

「仕方ありませんね……勝負には負けてしまいましたから……君の言う通りにしなければなりません……約束しましょう」

ヒノエは思わず振り返って弁慶を見つめた。
にやりといつものヒノエらしい顔つきで満足そうに言葉を返す。

「絶対違えるなよ?尤もあんたが違えてもオレが無理やり連れ戻すから覚悟しな?」

それから再び向きを変えて部屋を後にした。

部屋に残された弁慶と九郎がその後ろ姿を見送る。

「……一体2人で何の話をしていたんだ?」

九郎がそう弁慶に問う。
弁慶はヒノエが九郎に嫉妬していた事を思い出し、穏やかに「ふふっ」っと笑って「2人だけの秘密ですよ」と答えた。





Fin.





友達とチャットをしていたら、なりチャのような状態に発展し……
「今宵、小悪魔になれ」の歌詞から髪を結ぶという発想になり……
そんな経過で小説になってしまった代物。
大分前から書き始めていたのに出来上がったのはかなり経ってからですね……
少しずつ少しずつ書き進めていってようやく終わりにこぎつけたって感じです。
まあ相変わらずの駄文ですわ……。