腕の中のぬくもり
「泰衡殿!」
ばたばたと大きな足音を立ててこちらに向かってくる人物がいた。
声を聞けば姿を見なくても誰だかわかる。
まったく、いつもいつも騒がしい奴だ。
静かに書を読みふけっていた時に邪魔をされて眉間に皺がよった。
「……騒がしいぞ……九郎……」
姿を見る前からそう低い声で漏らすと、部屋の戸が開けられ九郎が遠慮なくずかずかと入ってきた。
「泰衡殿!」
騒がしいと言っているにも関わらず、声の大きさは全く変わらず……
それどころか近くで名前を叫ばれて、俺の耳には先程よりずっと大きな声が響いてきた。
鬱陶しそうに座ったまま振り向けば、ハアハアと息を荒げて両足を開き立つ俺の唯一友と呼べる人物がそこにいた。
最もこの御曹司殿を友達だなどとは他の者どころか本人の前ですらなかなか恥ずかしくて言えないが……
それにしても……
九郎は随分と慌てているようだが一体何だと言うのか?
この男はくだらない事で大げさに騒ぐ事が多い。
その為、俺は九郎が何か大事のように騒いでも簡単に動じる事はなかった。
「……今日は何だ?くだらない事なら帰れ。俺はこう見えて忙しい……」
冷たくあしらい、早急に帰るよう言ってやる。
もう少し早い時間であれば少々くだらない事でも友に付き合う気も起きるのだが、生憎ともうすぐ日も暮れるという時間だ。
御曹司殿にはさっさと帰って大人しくしていてもらいたいものだ。
だが九郎は帰るどころか落ち着きのない様子で何か言葉を探していた。
「大変なんだ!」
とりあえず出た言葉はそれだった。
何が大変なのか全くもってわからない。
「……いいから帰れ……」
どうせ大した内容ではないと思い再び帰るよう言ってやる。
しかし九郎は帰ろうとはしなかった。
そして九郎の次の言葉に、今まで上の空だった俺はぴくりと反応を見せた。
「……っ泰衡!大変なんだ!弁慶がっ!」
……今何と言った?
弁慶殿が大変……だと?
“弁慶”という言葉にどきりとし、見た目では殆どわからないがわずかばかり眉間の皺が深くなる。
反応を見せた俺に九郎は言葉を続ける。
「いつものように二人でこの平泉を散策していたんだが……はぐれてしまって……帰って来ないんだ!」
……………
弁慶殿が大変だというから少しばかり心配してしまった俺はその言葉に安心してため息を吐いた。
九郎と弁慶殿が共に出かけると途中ではぐれてしまうという事はよくあった。
その度に九郎は慌てふためき騒ぎ立てていたので、もうこちらは慣れてしまった。
ちょっとはぐれたくらいでそんなに騒いでは大げさすぎだ。
現にはぐれてしまったと大騒ぎしていた所に何事もなくのほほんとした顔で弁慶殿が戻って来る事が殆どだ。
なかなか戻って来ず、見つからない時もあったがそういう時には金も捜索に役立っており、匂いをかぎつけて居場所を知らせていたりした事もあった。
とにかく九郎と弁慶殿が共に出かけた先ではぐれるという事は珍しい事ではなくなっていたのだ。
そんなわけで、今更はぐれたぐらいでガタガタと騒ぎ立てる必要などないと判断した俺は、九郎に向かっていつもの事だろうと冷たく言い放ってやった。
しかし九郎は暗い顔で俯き不安な色を消さぬまま言った。
「……はぐれたのは昼頃なんだ……もう大分経っている。いつもは馬で遠乗りに出るんだが、今日は雪がかなり積もっていて……近場を歩き回っていただけなんだ。そう遠くには行ってないはずなのに……この時間になっても戻って来ないのは少しおかしくないだろうか?」
九郎の顔は心底弁慶殿を心配しており焦りの表情をしていた。
確かに……
もう日も落ちて空が暗闇に飲み込まれていく時間帯だ。
この時間に戻っていないというのはおかしな事なのかもしれない。
九郎によって開けられた戸から外の様子を見やれば、昼間はきらきらと光を反射していた一面に広がる真っ白な雪景色も太陽の光を失ってしまい、徐々に闇を吸い込んで染まっていくかのように灰色から更に黒に近づこうとしているどんよりとした色になっていた。
完全に暗闇の世界になってしまうのも時間の問題。
それなのに戻って来ない……
それまで九郎の言葉など簡単に聞き流しており真剣に考えていなかったが、なぜか途端に不安に襲われた。
開けられたままの戸から冷たい風が流れ込み、背筋がぞくりとする。
急に嫌な予感がして、今までとは表情を変え、九郎に向き直った。
「……で?……一体二人でどこへ行っていたのだ?はぐれた場所は?」
そう問えば、ようやく真剣になりはじめた俺に対して一呼吸置いて答えを返した。
「高館から金鶏山の麓付近に向かって歩いていて……その途中で……」
「……この雪が降り積もった中、山になど行ったのか!?」
いつもの口調から段々と荒い口調に変わっていき、声の大きさもそれに合わせて上がっていった。
「いや…っ近くまで行っただけで……」
まるで大人に叱られた子どものようにすくんだ九郎を睨みつけて俺はすぐさま立ち上がりなるべく暖かい、それでもなるべく動きやすそうな上着を羽織って外へと飛び出した。
そんな俺の後を慌てて追いかけて来る九郎にはぐれた場所を案内させる。
既に日は完全に落ちきってしまい、辺りは闇に支配されていた。
俺と九郎は持ってきた松明に火をともして、この暗闇の中で捜索を開始した。
手分けして探した方が効率がよいと思い、落ち合う大体の時間と場所を決め、別々に探す。
九郎は「弁慶!」と何度も何度も大きな声で叫びながら走り回っていた。
俺は必死になって名前を叫ぶなどらしくない行動を躊躇い、無言で探し回ったが、やがて時間が経つにつれ、なかなか見つからない焦りと不安から「弁慶殿…」と小さく呟くような声で名前を呼びはじめていた。
その名を呼ぶ声の大きさが無意識のうちに徐々に大きくなってゆく。
こんなに暗くなっても戻って来ないなんて一体何があったというのか……
何か事件に巻き込まれたのか?
自分では戻れない何かがあったというのか?
段々嫌な考えが頭の中を過ぎりはじめる。
最初のうちはそんな考えを振り払っていたが、捜索を始めてから大分経つのにも関わらずちっとも見つからない事から、気持ちが焦り始めていたようで、段々と最悪の事態が頭の中を支配し出していた。
もうすぐ九郎と落ち合う時間になるだろうか?
正確な時間などはわかりはしないがもう大分経っているだろう。
いやそれとも気持ちが焦っているために時間が長く感じられるのだろうか?
手に持った松明の火は本当に自分のすぐ近くしか照らし出してはくれない。
昼間なら見通しがよいであろう場所も今では黒一色で全く見えはしない。
そう遠くではない場所ではぐれたにも関わらず、暗くなっても戻らないという事はきっと何かあったに違いなかった。
暗闇の中、雪で足場の悪いこの状況。
早く見つけなければという思いが強くなる程、見つからない事にイライラしてしまう。
自分でもこんなに焦るなどらしくないと思っている。
だが焦らずにはいられなくなっていた。
これが他の者ならもっと冷静でいられたはずだ。
だがいなくなったのが弁慶殿であるとは……
心配せずにはいられない……
九郎の友人であり、九郎と共にこの平泉にやってきた自分よりも少々年上の男。
俺の後見人である湛快殿の年の離れた弟であるが、豪胆で野生的な兄とは外見も内面も全く似ていない。
九郎と友として一緒に過ごす内、弁慶殿とも時を共にする事が増え、いつの間にか気になりだしていた存在。
平泉に来てからも時折上洛し、平家へと出入りしているらしかったがそんな危険な事はするなと言ってやりたかった。
遠まわしには危険な行動をしないよう常に言ってはいたのだがまるで通じていないのか、それともわかっていても聞き入れないのか……
何も考えず突っ走る九郎とは違って、頭はよく、物事をきちんと考えてから行動するしっかり者のようだが、実は九郎よりも危なっかしかったりする人物だ。
他人の事には細かく口を出すが、自分の事となるといい加減で大雑把。
一人で抱え込むクセがあり、なかなか本心を見せない彼は、こちらが注意していないと何をやらかすかわからない所がある。
いつの間にか放ってはおけない存在になっていた。
九郎に抱いている感情が友情ならば、弁慶殿に抱いているこの感情は恋心だろうか?
まさか自分にこんな感情があるなどとは驚きだ。
しかも相手が男とは尚更驚きで笑える話である……
恋の病とはよく言ったものだ。
自分ではどうする事も出来ない事だった。
一人盛大なため息を吐くと白い息が顔にかかった。
ここまで探して見つからないのは既に九郎が見つけ出し戻っているからだろうか?
そろそろ一旦戻って九郎と合流するべきかもしれない。
そう思った次の瞬間、犬の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
その鳴き声は徐々に近づいてこちらへ向かっていた。
金だ。
主の元へ勢いよく走って来る。
「金……?」
そういえば姿が見えなかったがまさかこんな所にいるとは……
金は俺の足元まで来ると来た道に視線を向けた。
まるでこっちに来いと言っているかのように吠えながら少しずつ歩き出す。
まさか……
弁慶殿の居場所を知らせようとしているのか?
犬を信用するのも馬鹿らしいが、この金は既に何度か手柄を立てており今回も期待できた。
慌てて金について行くとある場所へと案内された。
突然ぴたりと止まりそこでクンクンと鳴き声が変わり、何かがある事を知らせていた。
急いでその場所を照らし出せば雪に埋もれた人影が見える。
すぐにそれが弁慶殿であるとわかると慌てて松明をその場に突き立てて雪の中から引きずり出した。
声をかけたが返事はなく意識がないようだった。
俺は息を飲む。
大方の雪を払いのけて手を握ってやると生きた人間の手とは思えない冷たさに死んでいるのではないかと絶望的な考えが押し寄せた。
だが弱弱しくも呼吸がある事に気づく。
まだ生きている。
しかしこのままにしていたらどうなるかわからない。
とにかく一刻も早く身体を温めなければと思い、松明の炎が燃えるそばで慌てて包み込むように抱きしめた。
伝わってくるのは冷え切ってしまった弁慶殿の身体の氷のような冷たさだった。
体中雪にまみれていては当然だ。そのまま凍死してしまいかねない。
伝わってくるあまりの冷たさに抱きしめる腕の力が強くなる。
無意識にだ……。
自分の熱を全て奪ってしまってもいい。
だからこのまま死ぬな……!
そんな思いでいっぱいだった。
ぎゅっと目を閉じて必死に冷たい身体をさすってやる。
弁慶殿が死ぬ……
そう考えただけで頭の中がぐちゃぐちゃになる。
そんな恐ろしい事は考えただけで奈落の底へと突き落とされるような感覚に陥ってしまう。
それなのにもしそんな事が現実になったら……
俺は頭を振り余計な事は考えないようにした。
大丈夫だ大丈夫だ大丈夫だ……………
恐ろしい考えを無理やり前向きな感情にし、まるで呪文を唱えるように「大丈夫」と心の中で繰り返す。
やがて弁慶殿の手がぴくりと反応を見せた。
その様子を見て、まだ意識は戻っていないようだったが「死」という恐怖心が何となく薄れて多少の落ち着きを取り戻す。
まだ安心できる状態ではないが、深呼吸で気を沈めながら冷たい頬に自分の頬を重ねる。
自分もずっとこの寒い中いたせいでそれほど温かいわけではなかったが、それでも弁慶殿の頬とはかなりの温度差があるように思えてそのまま何度も頬を擦り合わせた。
その後自分が羽織っていた上着を弁慶殿に包んで急ぎ邸に戻り、身体を温めてやると徐々に顔色もよくなり、体温も取り戻していた。
九郎が意識のない弁慶殿の姿を見た時は青ざめていたが、大分落ち着いた今ではほっとした様子で眠る彼を見つめていた。
自分もかなり取り乱していたが邸ではなるべく冷静に取り繕っていたので他人には悟られてはいないだろう。
一段落して落ち着くと、九郎が何か温まる物を持って来ると言って部屋を出て行った。
その直後、弁慶殿が小さく声を漏らしながらゆっくりと意識を取り戻し、目を開ける。
はっとして「べ、弁慶殿!」といつもより冷静さを欠いた声で名を呼んだ。
自分らしくない微妙に上ずった声に弁慶殿の方が目をぱちくりさせて何事かと言った様子でこちらを見つめていた。
しかしそんな事には構わず、安堵のため息を盛大に吐き出して、思わず「よかった……」と漏らしてしまった。
「泰衡殿……?」
不思議そうに俺の名を口にしながら起き上がった弁慶殿は、途中で「痛っ……」と言って足を押さえる。
どうやら足を痛めているらしい。
だから戻って来られなかったのか……
「足を痛めたのか?見せてみろ」
「いえ……大した事ありませんよ、これくらい」
いつものように柔らかく微笑んで見せる。
だが俺は「死にかけていたくせに……」と零し無理やり足を押さえている弁慶殿の手を掴み、傷めている足の様子を見た。
かなり赤く腫れていた。
「ちょ……ちょっと泰衡殿!?」
「どこが大した事ないのだ?」
「こ、これくらい自分で何とかなりますから平気なんです……」
確かに弁慶殿は薬師であり、痛めた足を治療するくらい自分で出来る事なのかもしれない。
だがその自分で何もかも抱え込み、他の者を頼ろうとしない彼に苛立ちを感じずにはいられなかった。
「人に散々心配をかけさせておいて平気だなどとはよく言ったものだ」
掴んだ手を離し、弁慶殿の顔を覗き込むようにして視線を合わせながらそう吐き捨てる。
「御曹司殿が騒ぎ立てていなければあなたは死んでいた。連れ帰った時にあなたの意識がないのを見てかなり蒼白していたぞ」
その言葉を聞いて「九郎は心配性ですねぇ……」などと暢気に零していた。
とても死にかけていた者の言葉とは思えない。
自分の事に無頓着であるのにも程がある。
「……私も……心配した……」
突然視線を逸らせて本音を漏らし、らしくない言葉に自分自身が驚いた。
「……え?」
弁慶殿は何を言われたのか咄嗟にわからずにきょとんとした顔で聞き返した。
気持ちが抑えられなくなってそのまま弁慶殿を抱きしめていた。
「……えっ?ちょっ!?どうしたんです!?」
いつもの俺ではしないような行為に慌てふためく彼には構わず、抱きしめる腕に力を込めた。
あの時に抱きしめた腕の中の身体は氷のようにとても冷たくて、もう駄目かもしれない、失うかもしれないと身の毛がよだった。
こんなにも誰かが死ぬのを恐れた事はなかっただろう。
今この腕に抱く身体は温かい。
「私は……あなたが……」
いつも冷静でいるはずの自分が感情を抑えられずに途切れ途切れの言葉で本心を口にした。
「俺は……お前が……死んでしまうかと思うと……とても……恐かった……」
抱きしめながら自分の身体が震えている事に気づく。
こんなにも心配してしまう程彼に捕らわれているのかと認識させられてしまった。
「……ごめんなさい……」
心底心配する様子に今までのほほんとしていた弁慶殿がすまなそうに謝ってきた。
「心配をおかけしてしまって……」
未だ腕の中に収められた彼がそう呟くように言う。
俺は九郎の騒ぎ立てから弁慶殿をここへ運んで来るまでの経緯を話した。
この俺自身が不安で焦ったり心配したりした事も含めて……
すると弁慶殿は再び謝り、この状況に陥った理由を説明した。
「雪が積もっていたせいで足場が悪く滑ってしまって……足を捻ってしまいました……」
それで動けなくなって戻るに戻れずどうしようか悩んでいたら風で木の上から雪が落ちてきてすっぽり埋まってしまったとか。
落ちてきた雪が柔らかい雪でよかったなどと言いながら情けないですよねぇとぼやく。
本当にこの人は仕方のない人だ。
そう心の中で呟くと弁慶殿が腕の中で身じろぎ、口を開いた。
「……でも……泰衡殿にこんなに心配してもらえるなんて何だか嬉しいです」
「は?」
「だって……泰衡殿は他の人の事を気にかけたりする事が少ないから……心配をかけてしまったのは悪かったですけど……嬉しかったですよ」
そう言ってまた腕の中で動いたかと思えば腕を後ろに回されて抱きしめ返された。
「ありがとうございます」
感謝の言葉と抱きしめ返された事に固まってしまった俺に更に弁慶殿が言う。
「必死で僕の事探してくれたんですよね?雪に埋もれていた僕をここまで運んでくれたんですよね?本当にありがとうございます」
腕の中にすっぽり収まっている弁慶殿の表情は見えないがきっといつものように柔らかい微笑を浮かべているであろう事が何となく感じられ、自分も自然と穏やかな笑みをいつの間にか浮かべていた。
自分には似合わない微笑を……浮かべてしまったであろう事も気にせずいつもの不機嫌な顔を完全に消し去っていた。
心地いい……
ずっとこのまま彼を腕の中に閉じ込めておきたい。
自分の手の届く所に常にいて欲しい。
腕の中のぬくもりがとても愛おしくて離れがたかった。
いつの間に俺はこんなにも弁慶殿に惹かれてしまっていたのだろうか……?
もう二度と失う事など考えたくない。
せめて九郎が戻るまでの間と思い、この二人きりの時間だけは、腕の中の弁慶殿が温かい事を確かめるように抱きしめていたのだった。
Fin.
弁慶受阿弥陀。参加作品……
最初将弁で書こうと思ったのにいつのまにか泰弁になっていたという……
けれどまあ、参加者様で将弁をかいていらっしゃる方が結構いたのでよかったかと思います。
何だか素敵な企画に私なんかが潜り込んでしまって申し訳ないと思いつつ、また何か企画があればやってみたいなと思ってみたりなんかして……
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