兄弟の絆はこれからも
龍神の神子と呼ばれたあの御方がいなくなってからもうすぐひと月が経つ。
おまえは何の役にも立たないのだから、決して目立たず人様の邪魔になるような事は慎むようにと言われ続けてきた。
そんな私に一歩踏み出す勇気をくださった御方。
まるで天女のようにこの世界に舞い降りて、役目を果たした後にこことは異なる世界……
あの空の雲より遠い場所へと帰られた御方。
彼女によって救われた京の都は少しずつ。
生気が満ちて来るようになる。
あんなに絶望に満ちていたのが嘘のように。
そんな中、私の生活も一変した。
ずっと私は小さな存在で、余計な事をすればすぐに誰かに迷惑をかけてしまうと思っていたから。
今まで静かになるべく身を潜めて生きてきた。
それなのに、お前は役に立たないと言い続けていた母親は、実の母親ではなくて……
和仁様と私は赤子の時に入れ替えられたのだと、驚くべき事実を知ってしまった。
だから今の私は、その事実を知る前までと同じではいられなくなってしまった。
これまで和仁様がいた地位にこのような頼りない私がいるのだ。
そして和仁様は反対に今まで私がいた地位に……
和仁様から地位を奪ってしまったという罪悪感が時々胸を痛めるのだけれど。
これが本来のあるべき姿なのだと自分に言い聞かせた。
もしも私の周りが心なしに口さがない貴族ばかりであったなら耐えきれず押し潰されていたかもしれない。
けれど。
今の私は親王という立場を苦とはしていない。
まだ戸惑う事はたくさんあるのだけれど。
決して辛いわけではないのだ。
むしろ……
「兄上」
私の後ろから柔らかな声がかかる。
その声を聞けば誰であるかはすぐにわかるのだけれど。
その姿をすぐにでも見たくてたまらない私は瞬時に反応して後ろを振り向いた。
振り向けばそこには花のような優しい笑顔。
「彰紋様」
私も自然と笑みを浮かべてその名を口にした。
私の中に温かいものが流れ込んできて、今が冬だというのにその温もりが冷える事はない。
いつも彼の姿を見る度に、幸福を感じる事が出来て。
この幸せな時間が過ごせる事に感謝をした。
「兄上。何度も申しているではありませんか」
少しだけ。
笑みを残しながらも頬を膨らませて怒るその姿も可愛らしくて顔が綻んでしまう。
「“彰紋”とお呼び下さい」
その言葉が胸の中に溶けてしみじみとする。
「はい、……彰紋」
自分で口にして思わず口元を押さえてしまった。
何だか気恥かしい。
それでも彰紋は名を呼ばれて再び笑顔を咲かせるから。
こうして名を呼ぶ瞬間がとても幸せだ。
まだ“兄”という立場に戸惑いはあるけれど。
尊く清らかで、遙か遠い手の届かない存在だと、ずっと思ってしまっていたから。
今こうして彰紋を近くに感じる事が出来てとても嬉しく思う。
私が手を伸ばせば触れられる。
触れる事が許されている。
私はそっと彰紋の柔らかく癖のある髪に触れて、頭を撫でた。
色素の薄い栗色の髪は珍しい色だけれど。
とても綺麗だと思う。
以前までは触れてはいけないと、手を伸ばす事を諦めていたというのに。
今では想いが溢れて止まらなくて。
彰紋と一緒にいられるのなら、“兄”という立場でもきっと幸せだと思った。
**********
ずっと私は東宮になるために生まれた存在なのだと思っていた。
その私から東宮の座を奪った彰紋が憎くて仕方がなかった。
けれどどれだけ憎悪を表に出して彰紋に辛く当っても、彰紋は決して私を嫌ったりしなかった。
いつでも手を差し伸べてくれる。
こんな私に絶えず笑みを浮かべて迎えてくれた。
そんな彰紋の手を振り払って突き放してしまった私の事など、捨て置けばよいものを……
本当の兄ではなかった私など……
気に掛ける必要もなかったのではないだろうか?
私は結局母親に振り回されてしまっただけの何も知らない操り人形だったのだ。
泉水の母親で私の叔母であると思っていたその人。
泉水の事を邪険に扱い、いつでも私を可愛がってくれた人。
まさか彼女が自分の本当の母親だったなんて思いもしなかった。
今、泉水と私との対応を思い返せば成程と納得してしまう。
私はただ母親の陰謀の駒として使われただけなのだと絶望した。
馬鹿な奴だと笑えばいい。
自分こそが東宮に相応しいのだと信じ込んでいた私は何と愚かなのか。
真実を知った瞬間奈落へと突き落とされて。
這い上がる事などもう出来ないと思った。
事実を公表された皇室内で、周りからの目はかなり冷たい。
その視線に耐えきれずここから逃げ出したい気分になる。
それでも。
この冷たく突き刺さる空気の中で、確かに温かく光射す場所があったのだ。
その場所に辿り着く事が出来るのならばどんなに苦しくてもそこを目指したいと思ってしまう。
冷たく暗い奈落の底から引き上げてくれる。
優しい手は今も私に差し伸べられているから。
その手を取って温かい場所へと這い上がりたいと思ってしまう。
「兄上」
「……彰紋」
私の目の前に微笑み合う彰紋と泉水の姿が見えた。
無邪気に“兄上”と呼ぶ彰紋に対して、泉水はまだ呼び捨てる事に抵抗を感じているような遠慮がちな声で彰紋の名を口にする。
今までは私がその立場にいるはずだった。
彰紋の兄は私で、彰紋は私の弟だった。
もしも私が母親の言葉に耳を貸さず、東宮の地位になど執着していなければ、あんな風にお互い笑い合えていたのだろうか?
今更後悔した所で遅すぎるが、それでも自然と唇を噛みしめてしまっていた。
彰紋と笑顔を交わす泉水が羨ましくて仕方がない。
今までならその場所は私の場所だったはずだ。
以前の私なら堂々とあの場所に入って行けたというのに。
簡単に手に入る時には見過ごし、自ら拒んだあの優しい場所。
それなのに大切にしたいと思った時にはもう遠い場所になってしまった。
手を伸ばしたくても伸ばす勇気さえない。
もう笑顔でこの手を取ってはもらえないのではないか?
今手を伸ばしても振り払われてしまうのではないか?
そんな恐怖が私の中で渦巻いていた。
あれだけ今まで酷い事をしてきたのだ。
今更あの笑顔を求める事など出来るはずもないのだ。
だから私は二人に気づかれぬ内にくるりと進行方向を変えて去ろうと歩み出す。
その時。
「兄上!」
彰紋がこちらに向かって呼びかけた。
“兄上”と言って泉水ではなく私に手を振るその姿に胸が締め付けられる。
私はまだ彰紋の“兄”であってもよいのだろうか?
「……彰紋…っ」
名を呟く声すら震えていた。
「あのような事があって兄上が落ち込んでおられるのは知っています。それでも僕は兄上が元気になってくださるのをずっと待っていますから」
そう言って私に向けられた笑顔は決して嫌味などではなく。
前と何も変わらない。
優しい笑顔だった。
「だって兄上は僕にとっては今も以前と変わらず僕の“兄”なのですから」
彰紋が私の前に差し出した手を静かに見つめる。
彰紋が私に微笑んで手を差し伸べてくれている。
私はこの手を取ってもよいのだろうか?
今までしてきた仕打ちを考えれば戸惑ってしまう。
こんな酷い事をしてきた私にまだ優しく手を差し伸べてくれるのが素直に嬉しい。
だけどそれに甘えてしまってもよいのか?
私はこの手を取る資格があるだろうか?
そんな葛藤をしていると不意に己の手に誰かが触れてきた。
はっとしてその手の主を見つめれば。
それは泉水だった。
「大丈夫ですよ」
そう言いながら私の手を取って彰紋の差し出す手の方へと導いてゆく。
「なっ!?」
今までは控えめで何に対しても自ら他人に自分の意見を言ったりする事もなかったあの泉水が勝手に私の手を掴んで彰紋の手に触れさせるその少し強引な行動に驚いた。
まったく余計な事をする奴だ。
おかげで私は躊躇っていた彰紋の手を取ってしまった。
「あ……」
拒まれる事を恐れたその手はしっかりと私の手を握ってくれて。
「兄上」
今もまだ私を“兄”と呼んでくれるその柔らかい声に包まれて心が温まってゆくのを感じる。
今まで私は彰紋に対して酷い態度を取ってしまっていたからいつも悲しそうな顔をさせてしまっていた。
けれど今この手を取った瞬間。
彰紋が見せてくれたのは花が満開に開いたかのような満面の笑顔だった。
私は……
涙が零れそうになるのを必死で堪えた。
私は周りの目がどんなに冷たくても構わないと思った。
他の誰に何と言われようとも、彰紋が変わらず“兄”として接してくれるから。
許されるのならば、私はこの場所にこれからもずっと居続けたいと願う。
**********
『彰紋!』
泉水と和仁の声が重なる。
名を呼ばれた彰紋が二人に向かって笑みを返す。
「はい。兄上。僕にとっては二人とも大切な“兄上”ですよ」
その言葉を聞いて泉水と和仁が顔を見合わせた。
お互い笑い合っていたけれど。
少しだけ複雑な顔をしていた。
兄と呼ばれる事は純粋に嬉しい。
それでも。
お互いが抱くのは兄弟としての愛情だけではないようで。
けれど今はまだ積極的になる事も出来ず。
ただそばにいられるこの瞬間がとても大切な時間だった。
Fin.
泉水さんと彰紋くんと和仁さんの3人でほわほわぁっとした兄弟の和みSSみたいなのを書きたかったのですが……
微妙に違う気も……
この兄弟好きなので書けて嬉しいです。
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