桜降る季節の約束
「忍人の嘘つき……」
小さく呟いた声は誰の耳に入るでもなく。
花びら舞う春の穏やかな風の中に溶けて消える。
三輪山は一面、淡紅色に染められていた。
桜が満開で少しずつ風に揺れて散りゆく様が何とも言えず美しい。
成程。
確かにここは桜の名所と呼ぶに相応しいかもしれないと思った。
戦の最中。
この場所に立ち寄った時。
春になったらまたここに来て。
共に桜を見ようと約束したのだ。
それなのに。
中つ国が橿原宮を取り戻し、千尋が王に即位した後。
王宮内にも花びらが舞い込んで春の訪れを告げる季節となり。
さあ約束を果たそうと出かける支度までしていた所で。
「那岐。やはり行けなくなった。すまないが今日は宮中で大人しくしていてくれ」
そんな風に断られてしまった。
何それ?
理由を聞いても忍人は表情一つ変えず冷たい口調で。
「仕事がある」とだけ告げる。
確かに復興中の中つ国は色々忙しいだろうけれど。
一日休んだって別にどうこうなるわけじゃないし。
千尋だって休暇を取って構わないって許可を出してくれていた。
だから今日二人で出かける約束をしたのだ。
ドタキャンなんてする程重要な仕事でも入ったの?
それならちゃんと理由を言ってよ。
僕だって子どもじゃないんだ。
納得のいく理由があれば大人しく受け入れる。
だけど忍人は何も言ってくれない。
ただ断りの言葉を告げただけ。
しかも断る際の態度は全然悪びれるでもなく、残念そうな態度を見せるでもなく、どこか冷たい表情で。
楽しみにしていた僕が馬鹿みたいに思えてきた。
何だかむかつく。
いいよ。
忍人なんて知らない!
僕は一人で見に行くから!
朝が苦手な僕がいつもより早起きしたっていうのに。
それが無駄になるのが無性に腹が立って。
忍人がいなくたって。
予定通り僕は三輪山に行くからな!
そんな事を心の中で叫んで。
王宮を飛び出した。
中つ国の王は千尋だけれど。
僕も王族の生き残りだと言われているため一人で外を出歩くなときつく言われていた。
それでもお構いなしに一人で三輪山へ向かう。
戦の最中ならともかく。
今はそんなに気を張る必要もないだろうし。
僕だって鬼道使いだ。
何かあっても簡単にやられたりはしない。
ただ桜の花を見に行くだけなんだから。
わざわざ誰かに護衛を頼むなんてそれこそ面倒だ。
そんな風に言い訳みたいな言葉を心の中で吐き捨てて、誰がいるわけでもない山道を静かに歩いた。
そしてやって来た約束の場所。
そこに咲く桜の花は見事に満開だった。
三輪山の桜の美しさに一人関心しながら。
忍人への小言が次々と漏れ出して。
誰もいないその場所に静かに流れて消える。
ふわりと風に揺れる己の髪を手でかき上げると。
暖かくて心地いい風に誘われるように一本の大きな桜の木の根元へと腰を下ろした。
ああ。
この気持ちのいい風は天鳥船の秘密の昼寝場所に吹き込んでいた風を思い出させる。
晴れ渡る青い空。
春の陽気で照る太陽。
桜の花びらが風に乗って舞っているというオプション付きなのだから。
昼寝には贅沢な場所だと思った。
朝いつもより早起きしたせいで身体がだるい。
僕がだるそうにしているのなんて珍しくもないだろうけど。
本当に今日は寝不足みたいだ。
次第にうとうとし出してしまう。
やがて僕は深い眠りについていた。
だから―――
無防備で眠る僕は。
それに気づくのが一瞬遅れてしまった。
気持ちよく眠っていた僕の中に突然ぞわりと悪寒が走る。
よくない気配にはっとして目覚めた時には遅かった。
「なっ!?」
眠っていた僕の背後から。
口を押さえる何者かに身体を拘束されていた。
「…むぅ……っ」
叫ぼうとしたが抑えられた口からは大した声も出せず。
もがいてみても圧倒的に相手の方が力が強くてびくともしない。
「大人しくしてもらおうか」
身を貫くような鋭い声音でそう告げられ背筋が凍った。
何これ?
何が起こっているの?
寝起きの頭でわけがわからず混乱する。
目の前にはごつごつとした口を覆う大きな手。
不穏な事態にあってもなお、美しい景色のまま花びらを舞わせる桜。
風が運んだ花びらが目の前を過り、それを追って視線を動かせば。
僕の背後にいる一人とはまた違う人間が少なくとも二人はいるようでその姿が視界の端に映った。
逃げなくちゃ……
そう思ってぼんやりする頭を何とか回転させようとする。
力では絶対に敵わないのだ。
何とか鬼道を使い、この状況を変えないと。
とはいえ口を塞がれているため言霊を紡ぐ事も出来ず。
身体を抱え込むように拘束され腕も動かせない。
たとえこの拘束から逃れられたとしても近くに控えている奴に再び捕まったら意味がないだろうし。
どうにも打開策が思いつかない。
困ったな……
自分がこんなに無力だなんて。
思ってもみなかった。
忍人に約束を断られたからって勢いで飛び出して来てしまったけれど……
「軽率だ」という言葉が聞こえるようだった。
忍人は今頃宮中で仕事でもしているんだろうか?
何の仕事が入ったのか知らないけれど。
狗奴の兵を率いて歩く将軍の姿がふと脳内を過る。
こんな事なら大人しくしていろという忍人の言う事をちゃんと聞いておくべきだったなと後悔していた。
そんな時。
僕の後ろから「ぐぅっ!」という呻き声が聴こえた。
次の瞬間拘束が解かれ口を押さえていた手がするりと離れる。
何が起こったのかわからなかった。
だけど状況を理解するより先に別の誰かに再び身体を抱きかかえられる。
でもその感覚は決して嫌悪感を抱くものではなく。
むしろ安心感を抱くものだった。
僕を後ろから抱きしめたのが誰か。
姿を見なくても何となくわかって。
安堵の息を吐く。
「貴様ら!王族に手を出したという事はこの国に弓引く者と捉えられて構わんな?」
僕の身体を抱えながら剣を構え冷たく放たれる言葉は確かに。
仲間内からも恐れられる葛城将軍のもの。
その言葉に「ひぃっ」と悲鳴に近い声が上がる。
僕を拘束していた男はすでに忍人によって一撃食らわされていて地面に伏しながら恐怖の色を浮かべていた。
残りの仲間らしい連中も他の狗奴の兵によって身柄を拘束されており、僕は事無きを得たようだ。
さすがは葛城将軍の率いる狗奴の兵。
迅速な対応で僕を襲った連中を連行して行く。
やがてこの場には忍人と僕の二人だけになった。
「…………」
すごく気まずい……
抱きしめられた身体は今は解放されて、お互い向き合う形で立っている。
何と言ったらいいかわからなくて思わず口ごもり。
上手く言葉が出てこなかった。
「何故君がここにいる?しかも共をつけず一人で……」
底冷えする程の凍てついた声が突き刺さる。
これはかなり怒っているようだ。
まあこんな危険な状況に陥っていたんだから無理もないのかもしれない。
無防備に昼寝なんてしていたのだから説教されても仕方ないだろう。
ただ怒られるのはわかるけど。
そもそも約束を破ったのは忍人だし。
僕がここへ一人で来たのは忍人の態度のせいでもあるし。
僕が一方的に責められるのはおもしろくない。
「元はと言えば葛城将軍が約束をすっぽかしたのが悪いんだろ?ろくに説明もしないでドタキャンとかするから」
思わずそう口に出してしまっていた。
忍人は「どた……きゃん?」と眉を寄せ首を傾げながらこちらを見る。
わざわざ意味を教えてやるのも面倒でそのまま口を膨らませて小さく付け足す。
「あんた冷たすぎるだろ?僕だけが楽しみにしてたみたいで、馬鹿みたいじゃないか……」
拗ねたような口調になってしまって、自分で子どもだな……と呆れた。
すると忍人は表情や口調とは裏腹に。
そっと優しく手を伸ばし僕の頬を撫でた。
「俺も君とここへ来るのを楽しみにしていた。だが今日この辺りに中つ国に恨みを持つ常世の兵の残党がうろついているという情報が入ったんだ。そのような危険な場所に君を連れて行くわけにはいくまいと思ったから取りやめたのだが……」
はあ?何だよそれ?
そんな話聞いてない。
ちゃんと言ってくれれば僕だって聞き分けたのに。
文句の一つも言ってやりたかった。
でも。
ふと忍人の手が震える。
その震えと共に。
「君が捕らえられていたのを見た時は胆が冷えた」
告げられた言葉はどんなに僕を心配しているかがわかるものだった。
「残党を片づけたら改めてここへ誘うつもりでいた。桜が散ってしまう前に解決させたかったから逸る気持ちがあって伝えきれなかったんだ。だが……確かに言葉足らずだったな。そのせいで君を危険に晒した……」
どんな時でも凛としていて何ものに対しても恐怖など感じる事がなさそうな忍人が震えている。
僕はそんな忍人を見て罪悪感を感じた。
忍人がもっと説明してくれればよかったって思うのは事実だけど。
いつも一人で出歩くなって注意されているにもかかわらずそれを無視した自分も悪かったと思ったから。
だから一人で出歩いた事に対して素直に謝ろうと口を開いた。
そこで。
「すまなかった」
「ごめん……」
忍人と言葉が重なる。
二人して、お互いを見つめた。
視線が交わる。
冷たい表情が解けて優しく微笑む忍人につられて僕も苦笑した。
まったくお互い不器用だよね。
「約束しよう。何があろうと俺は君を守ると。だからあまり危険な事はしないでくれ」
「……うん」
満開の桜の木の下で。
自然とお互いの手を繋ぐ。
「また来年も再来年も……君と共に桜を見られるように。これからも俺のそばにいて欲しい」
「……うん」
交わされた口づけは。
互いの存在を確かめるように。
舞い散る桜の花びらの中で優しく触れ合う。
ずっとそばにいるって。
約束だからね?
Fin.
「桜」をテーマに書いた拍手お礼SS。
桜で真っ先に思い浮かんだのが忍人さんだったので。
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