思いがけぬ逃避行





「長州の奴らがいたぞ!」
「追え!まだそう遠くへは行っていないはずだ!」

京の町中で。
浅黄色の隊服を来た新選組の隊士たちがぞろぞろと駆け回っている。
そして町の者たちが怯えながら次々と建物の中へと逃げ込んでいた。

新選組の隊士たちが追っているのは数名の男らしい。
新選組が“長州の奴ら”と叫んでいたのでおそらく逃げている側の男たちは長州藩に属する者なのだろう。

私は休息を取るため、たまたま入った飯屋の窓からそっと外の様子を窺った。
浅葱色の隊服とは反対に逃げている男たちは地味な色で目立たぬ衣服に身を包んでいたが。
どこか異様な空気を纏い、ただ者ではなさそうな身のこなし。
その存在感は新選組に負けず劣らずのものがある。
特にその内の一人には見覚えがあり、このまま黙って見過ごす事も出来まいと思った。

湯のみに残っていた茶を飲み干すとすっと立ち上がり。
店主にお代を渡して店ののれんからそっと外の様子を探る。

とりあえず近くに新選組の連中はいないようだ。

だが油断は出来ないため外へ出るとすぐに細い裏路地へと身を潜めた。
そのまま男たちが逃げて行った方へと移動を始める。
もちろん男たちが逃げた先には追っていた新選組もいるだろう。
危険な事は百も承知。

本来ならば関わるべきではない所だ。
しかし追われているのが長州の者となると。
己の同志であるのだから無関心ではいられない。
そしてその中に知り合いがいるなら尚更放ってはおけないだろう。

はっきりと全員の姿を見たわけではなかったが。
一人、特に私の目に飛び込んで来た人物には見覚えがありすぎるくらいであった。
そう。
今の長州にとっては大きな存在であり、私の友とも呼べる人物。
高杉晋作。

彼が新選組に捕まってしまえばかなり厄介だ。
もちろん高杉が簡単に捕まるような志士ではない事くらいわかっている。
けれど万が一という事もある。

私は息を殺しながら彼らを追う。
そんな時。
ふと嫌な気配が背後から感じられ。
はっとして振り向く。

そこにいたのは我らが同志。
長州の者たちのようで。

「桂殿」

息を切らせながらそう名を呼ばれた。
彼らは酷く疲れきったように汗を流し、肩を大きく揺らしながら息を吐いていた。
それはつまり今まで追っ手から逃げていたという事になるが……

まさかと思い。
更に同志たちの後ろへと視線を向けた。

「いたぞ!こっちだ!」

まずい。
見つかった!

浅葱色の隊服を来た者がこちらへと向かって来るのが見えて息を呑む。

「君たち!休んでいる暇はなさそうだ!早く逃げなさい!」

疲れ切ったような同志たちに向かって叫ぶと同時。
私は踵を返して走った。
振り返って確認はしなかったが。
どうやら同志たちも私の後を懸命に付いて来ているようで一先ずほっとする。

だがこのまま走り続けていてもやがて追い詰められるだろう。
人数は新選組の奴らの方が多い。
何とか奴らを撒かねば。

あれこれ思考を巡らせながらも足を緩める事はなく。
走り続ける。
しばらくその状態が続いたが、開けた大通りに出た瞬間。
私はようやく振り返り後ろの同志たちの姿を見た。
そして。

「散りなさい!」

それを合図にそれぞればらばらの方向へ走る。
一人だけ私と同じ方へ足を向けた同志がいたので一先ず歩調を合わせながら声をかけた。

「君、まだ体力は残っているか?」
「は、はい!何とか……」

息を切らせながらもしっかりとした足取りで私に付いて来ている所を見ると大丈夫そうだと思われた。
が。
新選組も実力を持った集団である。
どうやら距離は一向に開いてはおらず、むしろ縮まっているような気さえするのだから。
自分一人ならば何とか逃げ延びる事は可能だろうが、このままでは……

最悪の事態を想像しながらちらりと同志の姿を窺う。
それと同時。
殺気を感じて咄嗟にその身体を押し倒した。
瞬間刀が振り下ろされ空を斬る。
どうやら後ろから追って来ていた者とは別の隊士が潜んでいたらしい。
ごくりと息を飲む。

非常にまずい。

新選組の隊士に囲まれてしまった。
もはや剣を交えるしか術はないだろう。

腰に差していた刀に手をかける。
私としてはあまり気が乗らないが、避けては通れまい。

刃がぶつかり合う音が響き。
攻防戦が始まった。
己の腕に自信がないわけではないが、新選組の隊士たちももちろん手だればかりだ。
人数で劣っている分、分が悪い。
それにもう一人の仲間はどうも疲労の色が濃く、頼りなかった。

何とかこの者を先に逃がせないだろうか?

そう考え男の方へと視線を向けた。
明らかに押され気味で今にも斬られそうな状況だった。
助けなければとは思うが己自身の身を守る事で手一杯のため。
助け船を出す事さえ出来ぬ状況である。

本当にまずい。
とうとう男の刃は弾かれ、刀を地に落としてしまった。
危ないと私が叫ぶより早く新選組の振るう刀が我が同志へと振り下ろされた。

もう間に合わない。
そう思った時。

黒衣に身を纏った男が躍り出る。
同志を庇いその腕に刃を受けたのが見えた。

「高杉!」

思わずその男の名を口に出し叫んでしまう。

「大丈夫だ」

心配そうに見つめる私にそう吐き捨て、高杉は刀を抜く。
新選組の隊士を相手に毅然と立ち向かい互角以上に渡り合う。
その勢いで隊士たちが怯むと。
私も高杉を援護するように刀を振るった。
高杉の凄まじい攻撃に何とかこの場を乗り切り。
一先ず追っ手から逃れる事に成功する。



「はあ……何とか切り抜けられたな」
「すみません。足手まといになってしまって……」
「気にするな。それより高杉、腕は大丈夫なのか?」

川が流れる土手の影に身を潜め。
息を整えながら先程腕に傷を負った高杉に向かって問いかけた。

高杉は負傷した腕を抑えつつも、けろりとした表情で頷く。
「これくらい大丈夫だ」と言って周りに追っ手がいないか注意深く気配を探っていた。
私も周りに気を張りながら身体を休める。
いざという時にはまた走り回らねばならないのだから。



「……そこに誰かいるのですか?」

突然。
声をかけられた。
何の気配もなく近づいて来たその男に目を向ける。

「お前は……沖田……」

高杉が驚愕した顔で呟く。
が、驚きつつも鯉口を切り、身構えていた。

「一応聞くが……お前の今の目的は何だ?」
「僕は今、長州の者を見つけ次第捕らえるようにとの命令を受けています」

柔らかい口調とは裏腹に鋭い視線を送られ、沖田という隊士が刀を抜き放った。

「桂、こいつを連れて逃げろ!」

高杉がそう叫ぶとほぼ同時に。
沖田は高杉に向かって刀を振るう。
もちろん高杉が簡単に斬られるはずもなく己の刃で応戦するが。

高杉は腕を負傷している。
相手も剣の腕は相当のものだろう。
高杉を一人にしてこの場から逃れるわけにはいかない。
かといって疲弊している同志を一緒にこの場に留まらせるのも危険。
ならばと同志に向かってこう言い放った。

「新選組の注意は我々が惹きつけておく。その隙に安全な場所へ……君は一人で逃げなさい」

はじめは戸惑っていたがやがて己がいては足手まといだと感じたようで頷き、私たちから離れて行った。
あとは何とか我々で新選組を撒かねば。

沖田と刃を交える高杉を見守りながらどうするべきか必死に考えていた。
そこへ。

「にゃあ」

小さな黒い影が飛び出して来る。
何事か理解するより先に。

「あっ!?」
「くっ!?」

刃を交えている二人の戸惑いの声が上がった。
そのまま黒い影は沖田の方に飛びついて行ったようで。

「桂、今の内だ!逃げるぞ!」

高杉が隙を見てくるりと踵を返すと私の肩を叩き、駆けた。

「待ちなさい!」

沖田がそう叫ぶが、それを聞いてやる義理などない。
高杉と共に私は走った。
同志が逃げて行った方向とは逆の方向へ。

「どうやら猫に助けられたらしいな」
「猫?」
「ああ、先程飛び出して来たのは黒猫だった」
「そうか」

駆けながら後ろの様子を窺う。
猫を引き離した後で少々遅れながらも沖田がこちらへ向かって来るのが遠くに見える。

気を抜けば捕まってしまうだろう。
この辺りは家屋が少なく身を隠せそうなものが少なかった。



とりあえず茂みに身を潜めようとした所で。

ドン。

と誰かとぶつかってしまった。
新選組の追っ手にばかり気を取られてしまっていたせいだろうか。
人の気配を察知出来ずに勢いよく相手を押し倒してしまっていた。

京の人間であれば長州人に味方してくれる者もいるだろうが。
必ずしもそうとは限らない。
新選組が忌み嫌われている存在とはいえ、浪士を取り締まるための組織だ。
そちらに肩入れしないとは言い切れないだろう。

さて。
もしこの者が我々にとって害ある者であればここで大人しく眠っていてもらわねばならないが……

押し倒してしまった相手を恐る恐る覗き込んだ。

「……uh……」
「貴殿は……」

どうやら私がその者の姿を確認するよりも先に。
高杉が相手の正体に気づいて声を上げたようだった。
陽の光を浴びて目映く輝く金色の髪。
それはこの日の本の国の人間ではない事を意味している。
私がぶつかってしまった相手は異人であったのだ。
しかもその異人は見知った相手。

「何故こんな所にいる?」

そう問いながら高杉は素早く私の身体を引っ張り起こしていた。
もちろん追っ手が迫っているからという理由もあるだろう。

だが本当にそれだけだろうか。
どうも私と彼が密着した状態である事に不快感を抱いている様子だった気がする。

「私は植物を見ながら散歩していただけですよ。……ところで突然ぶつかって来て謝りもしないのですか?」

少々機嫌が悪そうにそう言われ、私は慌てて謝罪の言葉を口にした。

「……ああ、すまない。今は追われている身で新選組にばかり気を取られていたようだ」

ちらりと後方を見遣れば沖田がきょろきょろと我々の姿を探している姿が見えた。
一先ず茂みに身を潜めつつ。
視線を戻すと。

「追われて……?おやおや、一体どんな悪さをしたのですか?」

彼は苦笑しながら皮肉を零す。
主にこれは高杉に向かって発せられたもののようだったが。
高杉はその皮肉を軽く流し、嫌な顔一つせずに答えた。

「恥じるような事は何もしていない。ただ長州は幕府から敵視されているのでな」
「ああ、そうでしたね」
「とにかく今は貴殿とゆっくり話せる余裕はない。悪いがまた後日、謝罪させてもらおう」

そう告げて。
高杉が私の手を引いてこの場から離れるよう促した。
それに従い、身を潜めながら再び走り出そうとした所で彼に声をかけられる。

「待って下さい」

新選組がすぐそこまで迫って来ている状況で。
呼び止められて足を止めるのは命取りかもしれない。
そう思ったが。
高杉の方が先に足を止め彼を振り返ったので私もそれに倣いこの場に留まる。

「何だ?身の危険が迫っているので手短に願いたいのだが?」
「わかっていますよ。でもここら辺に身を隠せる場所は少ないと思いますけど?」
「ああ、それは言われずともわかっている。だがこのままここにいたら沖田に見つかるだろう。何とか切り抜けるしかあるまい」
「……それは難しいと思います。あなたたちがこの辺りにいる事がわかっている以上、新選組も厳重に見回りに来るでしょうしね。……ですから……」

彼は少し戸惑いながら私と高杉を交互に見遣った。
躊躇いがある事がはっきり感じられ。
追っ手が迫っている今の状況では殊更その間がじれったく感じてしまう。

「その……攘夷思想を持つあなた方にこんな事を言っていいのかわかりませんが……」

不安そうに我々を見る視線はどこか怯えているようにも見える。
一体何だろうかと思ったが。
彼は意を決したように小さく息を吐きこう告げた。

「……この近くに公使館があります。私の部屋にしばらく身を隠してはいかがでしょうか?」

一瞬何を言われたのかわからず目を瞬く。
高杉も同じだったようで、珍しく大層驚いて目を丸くしていた。

「こちらとしては以前公使館を焼かれているのでお招きするのは避けたい所なのですが。……以前とは違い、あなたたちが我々に対して暴力を振るう行為をしないと信じて申し出ようと思います」
「……サトウ殿……」
「もちろん本来この国の人が立ち入れない場所ですから公使たちには内緒ですが。このまま高杉さんが捕まってしまったらゆきも困るでしょうしね……。私がお二人を匿ってあげますよ。どうします?」

それはありがたい申し出だった。
一時、追っ手を撒けたとしても。
しばらくはこの辺りの警備も厳しくなるであろう事を考えたら。
新選組の連中が諦めて引き上げるまでの間、身を隠せる場所が欲しい所である。

英国の公使館に身を隠せるとしたらそれは絶好の隠れ場所に違いない。
何せ新選組とはいえ簡単に異人の領域に入り込めはしないだろうからな。

しかし我々がまさか異人に助けられる日が来ようとは。
何だか不思議な縁だと思う。

「本当にいいのか?」

高杉がそう問いかける。
彼は特に我々を嘲笑うわけでもなく、からかうわけでもなく優しく微笑んで頷いた。

皮肉を言う事も多いようだったが、本当に危機に瀕している状況では真剣に相手を心配し、困っている者がいれば純粋に手を差し伸べてくれる。
そんな人物なのだろう。
口では何と言おうと根は優しいのだ。

私はそうこの異人を評した。



追って来ていた沖田の目を掻い潜りながら。
案内されて辿り着いた場所は本当に静かな場所だった。
どこか人が通る事を拒んでいるような雰囲気がある。
通行人もなく、家屋もない。
そこにまるで寺のような建物が一軒。

「ここです」

そう告げられてまじまじとその建物を見た。

「他の方に見つからないように注意して下さいね」
「わかっている」

彼は先に建物の戸をそっと開いて中の様子を用心深く窺った。
やがて無言で手招きされると我々も入り口に駆け寄りさっと中へ入り込む。

中はまるでここが日本である事を忘れそうになる空間が広がっていた。
私たちは突如異世界へ迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
外観は寺のようだったこの建物の中はまさに異国。
イギリスではこれが当たり前の光景なのかもしれないが、日本にはない様々な品が並び飾られた室内に息を飲んだ。

高杉も見慣れぬ風景に、物珍しそうな視線を泳がせてきょろきょろと辺りを見回しているかのように見えた。
しかし直後そうではないと気づく。
高杉は以前上海へ行った事があり、西洋文化をその目で見て来た人物である。
確かに何度見ても珍しい事には違いないが、大きく動揺する程ではないと思われる。
それでも高杉にしては珍しく落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
それはこの不思議な光景に目を奪われているというよりもっと別の意味があるようで気になった。

だがもちろんのんびりこの異空間を眺めている余裕などない。
すぐに「急いで下さい」と急かされ二階へと招かれる。

襖を開いた先の一室に案内され。
ようやく安堵したように彼が胸を撫で下ろした。

「ここが私の部屋です。余程の事がない限り、誰も立ち入っては来ないので安心していいと思いますよ」

そう言って緊張していた表情を和らげて微笑む。
その笑みがとても美しく見えて思わず相手が異人の男であるにも関わらずどきっとしてしまう。
隣に立つ高杉を見遣れば。
いつもの毅然とした態度とは程遠く、呆然と彼の笑みを見ていた。

追っ手が迫っている状況で緊張していたのはわかるが。
今は何とか逃れ、とりあえずは落ち着ける場所にいる。
それなのに高杉はむしろ今の状況にこそ緊張しているようで身を固くしているようだった。

「どうぞ寛いで構いませんよ。ただしあまり散らかさないで下さいね」

特に机の上の書類には触らないよう注意し、そのまま彼は少し外すと断って部屋を出て行ってしまう。

しんと静寂が漂った。
高杉は尚も突っ立ったまま。
腰を下ろそうとしない。

あまりにも高杉の様子がおかしい事に気づき、私は声をかけた。

「どうした?高杉、先程から随分挙動不審だが?」
「い、いや……何でもない。まさか英国公使館の中に身を潜める事になるとは思わなかったのでな」
「それは確かにそうだが……」

高杉はちょっとした事では動じない男である。
内心では動揺していてもそれを他人に悟らせるような態度を取る事は少ない。
その高杉が明らかに動揺の色を浮かべていたのだから私としては不審に思う。
もちろん異人の領域で匿われるなど考えてもいなかった事態になっているのだから気持ちはわからなくないのだが。

高杉の心を不安定に揺さぶっている理由が他にあるような気がしてならなかった。

新選組に追われている時も。
同志を庇い傷を負った時も。
沖田と刃を交えている時も。
どんな危機的状況に追い詰められても堂々とした態度で立ち振る舞う。
普通の人間ならば非常識だと考える行動を狂気の沙汰で成し遂げるような男だ。
常軌を逸した行動であろうと何食わぬ顔で実行する度胸がある。

そんな高杉が何故ここで突然落ち着かない態度を示すのだろうか?

「それにしても下の階はまるで異国のように改装されていたが、サトウ殿の部屋は和室のままなのだな」
「ああ、そのようだ。しかしこちらの方が我々にとっては落ち着く」
「そうだな。やはりサトウ殿はああ見えてこの国が余程好きなようだ」
「は?」

高杉は表情を柔らかくして部屋を見渡していた。
まだ少し緊張が解けぬまま、しかしその表情は今まで私が見て来たものの中でも例がない程に穏やかで驚いてしまう。

このような高杉の顔を今まで見た事がない。

高杉は禁欲的そうに見えて意外と性欲は人一倍激しいらしい。
攘夷活動に奔走する間は潜めて内に閉じ込めているようであったが。
以前は酌婦や遊女たちを相手にかなり遊んでいたようである。
それでもおそらく今まで抱いてきた女にすらこのような顔は一度も見せた事はなかったであろう。

高杉は最近何かが変わった気がする。

近頃女遊びをしなくなったのは我らが恩師松陰先生の志を継いでこの国を変えるため、なすべき事を遂げるため、強い意志を持っての事だと思っていたのだが……



まさかと思う。

高杉が特定の誰か一人に想いを寄せている……?

他の女に興味を示さなくなったのは想い人が出来たからなのか?

その相手は……



そこまで思い至って再び部屋の襖が開いた。

もちろんやって来たのはこの部屋の主だ。
少し外すと言って部屋を出て行った彼は戻って来た時には何やら水の入った小さな桶と木箱を抱え込んでいた。
一体何を持って来たのかと疑問に思いながら彼の言動をじっと待つ。

「おや?何を突っ立っているのですか?座って構いませんよ?」

そう彼に促されたので呆然と立ち尽くしていた私たちはようやくはっとしてそこへ座り込む。
彼もそれに続いて畳に膝を付くと抱えていた桶と木箱を置いて蓋を開けた。

覗き込むとそこには薬の類が入っているようで。
「高杉さん、傷を見せて下さい」と言うのと同時に返事を待たず彼は高杉の手を取った。
その時の高杉の驚き様といったらこちらが目を丸くしてしまう程であった。
まるで高杉の鼓動が聞こえて来るのではないかというくらい緊張した様子で唖然とする。
もっとも高杉をよく知る私の目から見ての事であって、他の者の目から見たらあまり表に出ていないのかもしれないが。
私は己の目を疑ってしまった。

彼は単に高杉が腕を負傷しているのを見て心配して手を掴んだのだ。
他意はないであろう。
だが高杉は腕を掴まれた事に明らかに動揺していた。
彼が傷を覗き込んでいる間、身を固くしながらその顔をまじまじと近くで見つめる。

純粋に高杉を案じて視線を落とし、真剣に傷の具合を見る彼の姿。
整った甘い顔立ちに、我々日の本の人間が持たぬ金糸、宝石のような翠の瞳、透き通るような白い肌。
私でも一瞬生唾を飲み込む程の美しい姿だった。

高杉は口をぱくぱくとさせながらも何も言えずに固まっていた。
おそらく「これぐらい大丈夫だ」とか「心配いらない」と言って手を振り払いたかったに違いない。
普段の高杉ならそういう態度を取るはずだ。
だが傷の手当てをしようとしている相手が彼であるとどうもそうはいかないらしい。
振り払おうとはするものの本心では彼に心配され触れられている事に喜びを感じているようであった。



これはいよいよ確信に近づいた気がした。

高杉はこの異人に対して何か特別な感情を抱いている。



彼ははめていた手袋を取ると、濡らした布で傷口を綺麗に拭き取り、木箱から薬を取り出してそれを優しい手付きで塗った。
医者ではないからあまり上手く手当ては出来ないと断りを入れた後で。
胸の衣嚢に収められていた手巾を手に取る。

「今は私のハンカチくらいしか使える物がないのでとりあえずこれで縛っておきますね」

汚れ一つないその手巾が高杉の腕に巻かれようとした。
やっとそこで高杉がはっとして慌てて彼の腕を取った。

「待て。それは貴殿の物だろう?わざわざ汚す必要はない」

大人しく手当てを受けていたはずの高杉が突然抵抗したのでびくっと肩を揺らしたようだったが。
高杉の気遣いに目を瞬かせ。

「別に問題ないですよ。ハンカチよりも高杉さんの身体の方が大事でしょう?」

真顔で当然の事だと言った。
もちろん彼が根の優しい男だからこその言葉だ。
他に意味はない。

それでも高杉にとっては心を揺さぶる言葉だったようで。
いよいよ顔を紅潮させて震えていた。

さすがにこの変化には彼も気づいたようで。

「どうしました?傷が痛むのですか?」

などと不安げに高杉に顔を近づけて覗き込む。

けれどそれは逆効果だと叫びたくなった。
いつもは身長差のため見下ろされる事の方が多いはず。
しかし今は彼が身を低く屈めているため、高杉を僅かに下から上目遣いで見上げる形になっている。
それも普段ならあり得ない程の近距離。
ますます高杉を動揺させる行為であろう。

が当然彼はわかっていない。

高杉が人一倍性欲に富んでいるらしい事を知っている身としては。
気が気ではなかった。
頼むから理性を保っていてくれと願わずにはいられない。

禁欲的に見えるのは普段、抑えているからに過ぎない。
高杉も男だ。
限界と言うものがあるだろう。

正直ハラハラしながら私は二人の様子を見守った。

「いや、大丈夫だ」
「……そう……ですか?」
「ああ、すまない」
「……とりあえず巻いておきますね。後で晒を貰って来ますからそれまで我慢して下さい」
「いや……そこまでする必要はないので大丈夫だ」
「でも……」
「その布だけで十分だ」
「はいはい。……わかりました。あなたは強情なようですからね」

彼が綺麗な動作で手巾を高杉の腕へと巻いて縛る。
その手の動きを食い入るように見つめていた高杉。
やがて手当てを終えた彼が薬を木箱に仕舞い込むとすっと高杉から離れて立ち上がった。
何とか二人の距離が通常に戻った事に内心ほっと息をつく。
とりあえずは何事も起こらずすんだ。

高杉はこちらが考えもしないような突飛な事をやらかす事がしばしばある。
狂気に走る奇想天外なこの男に常識を説いた所で意味がない。
こう見えて本当は優しい男である事は知っているが……
あの状況で理性を保てず襲いかかっても不思議ではなかった。

もしも私の考えが正しければ。
高杉は今目の前にいるこの異人に恋をしている。
それも相当想いは深そうだ。
いつ頃からなのかはわからないが。
高杉の心を動かす程の想いである以上、簡単に消せるものでもないのだろう。

しかし。
肝心の相手はおそらく高杉の想いになど少しも気づいていない。
彼から見れば高杉は攘夷を唱える長州藩士の代表とも言える人物であり、聞けば出会いは最悪だったという。
つまり高杉は過激な攘夷活動の最中彼との出会いを果たし、問答無用で彼を殺そうとしたわけだ。
これで好かれているなどとは到底思えない。

今でこそ妙な関係になっているが。
この異人に高杉が持っているような特別な感情があるとは到底思えない。
無謀な恋だ。



「外の様子を見て来ましょうか?もっとも今日一日はたとえ新選組が引き上げていても大人しく身を潜めていた方がいいとは思いますが……」
「貴殿がそのような事をする必要はない。ところで先程も一人であの場にいたようだが、まさかいつも警護の者を一人も連れずにうろついているのではあるまいな?」

彼の親切心からわざわざそんな事を申し出てくれたようだが、高杉はこれにはいい顔をせず。
むしろ眉根を寄せて鋭い視線を送った。
いつもの高杉の顔に戻ったといえばそうなのだろうが。
それは明らかに心配しているという顔だった。

「もちろん京の町へは一人で行きませんよ。でもあのくらいなら公使館のすぐ近くですし、わざわざ人について来てもらう必要もないでしょう?」
「確かに庭先に出るような程度の距離だったかもしれん。だがいくら近いとはいえ油断するべきではないはずだ」
「我々を殺そうとしていたあなたに言われたくはありませんね」

彼の口から再び皮肉めいた言葉が零れると。
やれやれと思った。

やはり高杉の想いになど少しも気づいていない。

「とにかく今日はここで一晩大人しくしていて下さい。敷き布団は私の分しかありませんが、それ程寒い季節ではありませんから掛け布団は何とか分けて使えると思いますし、二人増えるくらいならその辺のスペースに寝られると思います」
「……っ!?」

気づいていないからこそこちらの心臓に悪い発言も平気でするのだ。
今の高杉と同じ部屋で一晩明かすという事がどれ程危険なのかまるでわかっていない。

しかし彼の部屋でしばらく匿われる事になった以上それは当然の事で。
何も反論出来ずにいた。
この場合二人きりという状況でなかった事だけが救いなのだろうか。
高杉が私の存在を無視して盲目にならない限りは大丈夫であろう。

「どうかしましたか?」

高杉が動揺しているのはもちろんの事。
私も気が気ではないため挙動不審らしい。
彼は怪訝な顔で私たち二人を交互に見つめた。

「何でもない。出来れば君は少し離れた場所で寝た方がいいと思うのだが……」
「……どうしてです?」

忠告をしてやろうと口を開いたが、彼は首を傾げるだけだった。
もっとはっきり言ってやるべきだろうか。

“高杉に襲われてもいいのか?”

と。
そう言ってやりたかった。
が、それよりも先に彼は言った。

「まさか高杉さんに襲われるとでも言うんですか?」

この発言には私だけでなく高杉も心臓が弾ける思いだったに違いない。
何故私があたふたして鼓動を速めなければならないのだ?
ただ彼の言う“襲う”とは別の意味で言ったであろう事はわかる。

「殺すつもりがあるのならとっくに襲われていると思いますけど?」

やはりそういう意味らしい。

「大体匿われているあなた方が私を殺してしまったら、新選組だけでなく英国という敵を増やして完全に逃げ場がなくなるだけですよ?」

返す言葉はなかった。
私の言いたかった本当の意味を話したら一体どんな顔をするだろうか?
喉元まで出かかった真実を呑み込み。
高杉の方を見た。
平然としているように見えるが……
そっと傷を負った個所に手を添えているのが見える。
巻かれた布に愛おしそうに触れて。
理性を保とうと誓いを立てているようにも見えた。



結局この日一日。
気が休まる事はなかった。
追っ手に見つかる不安に襲われる事がなかった代わりに。
高杉が暴走しないかとそれが心配でなかなか寝付けないでいたのだ。

ちなみに彼が部屋の隅に布団を敷いてそこに横になったので私がすかさずその隣に横になろうとした所。
高杉がものすごい形相で私を睨み、間に割って入り込んで来た。
結果彼の横に高杉が寝る形となってしまった。

私は少しでも高杉がおかしな行動を起こさないようにしたかったから彼の横に行っただけなのだが。
高杉からすると他の人間が彼に近づくのを不快に思うらしい。
まして寝返りをうてば触れてしまいそうな程近くで寝るとなれば、許せないのだろう。

灯りを消し。
夜の静寂が漂う室内。
暗闇の中、窓から僅かに月明りが差し込んでいた。
やがて規則正しい寝息が耳に届く。
無防備に眠りについているのであろう彼の姿は高杉の背中が邪魔で私からはよく見えない。

高杉は彼が眠りにつくまでの間ずっと仰向けで天井を見つめていたが、寝息が聞こえるようになると向きを変えたらしい。
彼の寝顔を堪能しているのだろう。
本来一人で使っているはずの部屋に三人の男が寝ているのだからかなり狭い。
そんな近い距離で愛する者の寝顔をじっと眺めるというのがどれ程の事か。

高杉にとってもこんな日が訪れるとは思っていなかったのだろう。
彼の部屋に招かれる事すらあり得ない事だったのだ。

高杉の今の心情を思えば私としてはかなり複雑だ。

だからこの偶然に訪れた機会に高杉がとんでもない行動に出ないか不安が襲う。
頼むから問題を起こさないでくれと願わずにはいられない夜であった。



高杉も私も一睡も出来なかったようで。
翌日はかなり疲弊していた。
そんな私たちの姿を見て。

「やはり異人と一緒では寝心地が悪かったでしょうか?」

と哀しそうに彼は俯いた。

「貴殿のせいではない」

高杉が慌てて否定する。
もちろん表向きは冷静な態度でだが。

「考え事をしていたら寝付けなかっただけだ」
「…………」

高杉が眠れなかったのは彼の寝顔が間近にあったから常に心臓が激しく脈打っていたためだと思われる。
どっと疲れが押し寄せて大きなため息を漏らした。

「私も少々考える事があって眠れなかった……」



新選組が諦めて近辺の巡回の強化を解いたのはそれから数日後の事である。
それまで毎晩、同じようにこの不安と戦い続けたのだった。

やっと外へ出られるようになった日。
高杉は治りかけの腕をそっと撫でながら名残惜しそうに公使館を後にした。

彼が巻いてくれた手巾はまだ、高杉の腕に巻かれている。
毎日傷の手当ての度に外しては巻き直してくれていた。
本当は二日目に晒を持って来てそれを巻こうとしていたのだが。
高杉はそれを拒んで、そのまま同じ手巾を巻いて欲しいと頼んだのである。
彼は何故そこまであの手巾にこだわるのかわからず困惑していたが。
あまりにも高杉がそれを望むので毎日それを手洗いして巻き直してやっていた。

「いずれこの手当ての礼はする」

そう言って巻かれた手巾は貰ったようだ。
高杉は傷が治った後もあの布を宝物のように大事に持ち歩くのだろう。



高杉は我々長州藩士を束ね導く重要な人物であるのと同時に奇想天外な言動に走る問題児であった。

次は何をやらかしてくれるのかと思えば。
まさか異人に恋焦がれるとは。
こればかりは長い付き合いの私でも驚きを隠せない。

人目を気にしながら公使館を出ると入り口の前まで彼が見送ってくれた。
彼は大きく手を振って穏やかに笑みを浮かべている。
我々も歩きながら何度か振り返り手を振り返した。
異人に見送られるというのも不思議な気分であった。

高杉が優しく微笑み返して手を振った時にはこれまた驚いたが。
きっと彼にはこの表情までは見えていないだろう。

それはまるで仕事に出かける夫とそれを見送る妻という光景のように見えてしまい。
ますます複雑な気持ちになり、私は苦笑を浮かべるのだった。



藩邸へと戻ると私たちの無事を喜ぶ同志たちに出迎えられた。
どうやら追っ手から皆逃れられたようで誰一人欠けていないと報告を受け、安堵の息を吐く。
それでも私はどうにも落ち着かず、高杉の方を盗み見た。
ここにいるのはいつも通りの高杉である。
が、公使館に身を潜めている間の高杉は恋する青年そのものであった。
その姿を思い出し、再び不安が湧き上がる。





願わくは。

高杉のこの恋が気まぐれによる一時のものであらん事を。
どんなに欲した所で手に入る望みなどないのだろうから。





Fin.





桂さんお誕生日に書き出した突発SS。
最初は拍手SSにしようかと思っていたのにグダグダと長くなってしまったので普通にUP。
高杉さん昔は女遊びしてたけれど攘夷活動するようになってからは控えるようになった設定?
アーネストに恋してからは女の人に興味なくなったって感じで…
勝手な設定ごめんなさい…