ふたりのHappy Valentine's Day
どんよりとした鉛色の空。
雨というより雪が降り出しそうな程外の空気は冷えて。
吐く息が白い。
チナミはそんな寒空の下、自分が泊まっている宿へと帰る道を急ぎ足で進む。
身体を鍛えていて丈夫だとはいえ、あまりにも冷え込む空気の中に長い時間いては体調を崩しかねない。
そう思い、悴んだ手に己の息を吹きかけて温めながら歩く。
降り出す前に何とか辿り着きたいと、段々駆け足になっていた。
だがチナミの思いに反し、宿へと着く前にひらりひらりと白い花びらのような雪が舞い降りてくる。
「くそっ、降ってきたか……。ただでさえ寒いというのに……」
太陽が完全に姿を隠している暗い空を見上げて。
一人小さく毒づいた。
頬に雨とは違う小さな氷の粒が当たる感触を感じ、手でそれを拭う。
しかし徐々に雪は勢いを増して空から落ちてきて、チナミの頭や肩が白く染まって行った。
チナミはまだ若い。
そのため割と元気で、冬の寒い日でも他の者に比べて薄着をしていたが。
見ているこちらが寒いから上着を羽織るようにと恋人であるアーネストに言われて、今日はいつもより着込んでいる方だった。
それでも雪の冷たさには流石にぶるりと震え、足を速めて宿を目指す。
「はあ……やっと着いたな」
宿の入り口に辿り着いた時には髪も服も真っ白だった。
駆け込んだ宿でその雪を払い、一息付くと。
チナミの身体が濡れているのを見た宿屋の女将が手ぬぐいを差し出してくれた。
「ああ。すまない、ありがとう」
礼を言いながら濡れた身体を拭く。
風呂を沸かすから後できちんと温まるといいとの心遣いを受けて。
更に感謝の言葉を口にしたチナミに女将がふと思い出したかのように言った。
「そうそう。あなたが“チナミ”って人ですよね?」
「……?ああ、そうだが……何か?」
急に名を呼ばれ、何だろうかと女将に視線を向ける。
すると少し待つようにと言ってきたので、言われた通りその場で待っていると。
どこからか何かを取り出してチナミの方へと差し出してきたのだった。
「これ。あなたに贈り物みたい。受け取ってくださいな」
「オレに贈り物?」
誰かに何かを贈られるような心当たりがなく、チナミは訝しそうな顔をした。
けれども女将は間違いなくチナミへの贈り物だと言われて預かった物だと言って押し付けるように渡してきたので受け取らないわけにもいかず、それを手にする。
渡されたのは小さく二つ折りにされた和紙と一輪の赤い薔薇の花だった。
二つ折りにされている和紙は二枚重ねられているようで、蘇芳に染められた和紙を開くと中はやや紫を帯びた薄紅色であった。
その中には何やら文字が書かれており、文のようだと気づく。
赤い薔薇はどうやらこの文に添えられているものらしい。
薄く白い和紙を使って丁寧に包まれた一輪の薔薇はこの寒い時期によくこれだけ鮮やかに咲き誇っているものだと感心する程見事な咲きっぷりであった。
一体誰がこれを?
そう思って小さな二つ折りの文に目を通した。
文にはこう書かれている。
『あなたは冬枯れの寂しい風景の中でさえも色鮮やかに咲き誇る、まるでこの冬薔薇のような人。
燃えるようなあなたの情熱は私の心をいつも温めてくれる。
素直になれない不器用さも含めて、私はあなたを愛しく想っています』
「……な、何だこれは……!?」
書かれているのはどうやら愛の告白の言葉らしい。
ますます渡す相手を間違えているのではないかと疑いたくなった。
だからもう一度、女将に確認を取る。
それでもやはり返ってくる答えは、間違いなくチナミへの贈り物だという事。
こんなものを贈ってきたのは一体誰だ?
そんな疑問を抱いて、差出人の名前を探す。
けれども文の中には差出人の名は書かれていない。
告白の言葉を綴った最後に書かれているのはただ『あなたをひそかに想っている者より』という不明瞭なものだけ。
恋文などを貰った経験がないため、チナミは誰の目から見てもわかる程動揺した。
好意を寄せてくれるのは純粋に嬉しいと思うが、名を名乗らないというのは無礼ではないのかと。
そんな事を思ったり。
いやたとえ名乗られても既にアーネストという想い人がいるチナミにはこの文の差出人の想いに答える事が出来ないと。
困惑気味に文面を眺めたりした。
こんな想いを寄せてくれるような相手に心当たりがない。
外見は悪くない方かもしれないと自分で思うのも変な話だが、見た目だけならばそれなりにもてる方ではあった。
だが古風な考え方を持ち、頭がとても固く、柔軟に物事を受け入れられない性質で。
女性に対しても優しく接する事が出来ず、時々目つきが悪く睨まれているようで恐いと言われてしまう程だった。
ここ最近はずっと神子であるゆきの八葉として行動を共にしていた事もあり。
特別他の誰かと親しくした覚えもなかった。
ゆきたちは宰相との戦いの後、自分たちの世界へと戻って行ったため今はもうこの世界にはいないはず。
となるとこの文はゆきや都でもない。
では一体誰だろうか?
ひそかにチナミを想ってくれている者がいる。
その事実に胸の鼓動が速くなった。
どきどきする胸を抑え、気持ちを落ちつけようと頭を振った。
たとえどんなに情熱的な想いを伝えられようともチナミには心に決めた相手がいる。
アーネスト以上に好きになれる者などいないのだ。
だから心を揺らしていては駄目だと。
大きく息を吸って冷静になろうと努力した。
まだ多少の動揺は残っていたが、いつまでも宿の入り口であたふたしているわけにもいかず。
チナミは己の泊まっている部屋へと戻る。
するとそこにはちょうど今、頭の中で考えていたチナミの想い人であるアーネストがいた。
どきりとして手に持っていた文と薔薇を思わず後ろへと隠した。
別に疾しい事は何一つしていない。
恋人であるアーネストを裏切るような行為をしたわけでもないのだから。
それでも好きな者に他の者から貰った恋文など見られたくないだろう。
反射的に隠した贈り物をアーネストに見られぬよう、なるべく不自然な姿勢にならない程度に両手を後ろにしたまま部屋の中へと入った。
「サ、サトウ!来ていたのか!?」
「ええ。今日はチナミくんと逢瀬の約束をしていたじゃないですか」
「確かにそうだが、まだ約束の刻限には早いのではないか?」
「今日は天気も悪かったですから、降り出す前にと思いまして」
部屋の窓からアーネストが雪の舞う空を見上げる。
何か思いを馳せるように瞳を揺らしながら。
「まさか一人でここまで来たのか?まだこの世界は安全とは言えない。外へ出る時はオレが迎えに行くから公使館で待っていろと言っているじゃないか!」
「確かにまだ我々外国人が一人で出歩くのは危険ですね。……でも一応護衛の方にここまで連れて来てもらったので問題はありませんよ」
ひらひらと舞う雪を眺めながらアーネストがそっと手を伸ばしてその六花に触れる。
「それに……」
手袋をはめていない手に雪が落ちて来るとその冷たさに一瞬ぶるりと肩を揺らしていた。
そしてゆっくりチナミの方へと視線を向けて言った。
「今日は“St. Valentine's Day”ですからね。チナミくんが宿に帰って来る前に色々と準備をしていたのですよ」
「は?せんと、ばれん……?何だそれは?」
「ふふっ。内緒です」
「何だ、気になるではないか!」
意味ありげなアーネストの言葉にチナミはじれったくなって問い質す。
しかしアーネストはいくらチナミが問いかけても決して答えようとはしなかった。
「気になるようでしたら自分で調べてください」
少し意地悪な笑顔でそう言われるとこれ以上は聞けなくなってしまう。
何となく楽しそうな顔を見せるアーネスト。
好きな人が近くにいて笑ってくれる。
それはとても幸せな事だと思う。
けれどその笑顔が悪戯を仕掛けて楽しむ子どものような表情だったため、引っかかりを感じてしまうのだった。
これは何かあるな。
とチナミは思った。
だがアーネストは内緒だと言った。
だからきっとどんなに問いかけても本人の口からは言ってもらえそうにない。
誰か異国の事に詳しい者がいればと思考を巡らせてみる。
しかし一番聞きやすそうなゆき、都、瞬たちはもうここにいない。
そんな事をつらつらと考えていると。
アーネストがまたふふっと笑ってチナミの後ろを指差した。
「ところで、チナミくんは先程から何を後ろに隠しているのですか?」
しまった、ばれたと心臓の音がどくんと鳴り響く。
チナミは背中に嫌な汗をかいた。
「な、何の事だ!?」
とりあえず誤魔化そうとはしてみるものの。
アーネストはほぼ確信を持って言う。
「赤い薔薇……ですか?」
完全に気づかれている。
チナミはもはや隠せないと諦めて。
仕方なく薔薇の花だけをアーネストに差し出した。
あくまで薔薇だけ。
文の方は絶対に見られたくないと隙を見て懐へと仕舞い込んでしまう。
「ああ……こ、ここの宿屋の女将から貰ったんだ。この寒い中、一輪だけ庭に咲いたらしい」
女将から手渡された事に関しては嘘ではない。
何とか納得してくれればとチナミは願った。
ちらりとアーネストの表情を見れば。
やはり楽しそうでどこか意地悪そうな笑みを浮かべている。
アーネストがチナミをからかう事はよくある事だが。
何となくいつもと違う雰囲気があって調子が狂う。
「へえ。チナミくんは恋人の私にも平気で嘘をつくのですね」
笑みを見せていたアーネストが少し寂しげに俯く。
チナミは慌てて違う、嘘などではないと言ったが。
アーネストはチナミの嘘を見抜いているようだ。
ゆっくりとチナミの手から薔薇を奪い取る。
「この薔薇は……一体誰から貰ったんです?本当に女将さんからですか?」
「そ、それは……」
隠そうとはしても元々嘘が得意ではないチナミは口籠ってしまう。
ただでさえ嘘は苦手なのだ。
好きな相手に嘘をつくなど余計に心苦しい事だった。
やはり嘘は言いたくない。
好きな者に偽りの事を告げるなど恥ずべき事だと思う。
しかし真実を口にするのも躊躇われて言葉に詰まる。
チナミにひそかに想いを寄せる誰かがいるという事。
それを恋人のアーネストに告げる事が果たしていい事なのか。
思い悩み、一人考え込んでしまう。
困り果てているチナミを見てアーネストがまたくすくすと笑っていた。
何故ここで笑うのだ?
疑問に思って顔を上げればチナミの額にアーネストからの口づけが降ってくる。
「な、な、なっ!?何をいきなり!?」
恋人とはいえ突然の口づけに顔を真っ赤に染めて動揺するチナミ。
そんなチナミの様子を見てやはり楽しそうに笑っているアーネスト。
「今日は恋人たちにとって特別な日なんですよ。だからね」
そっとチナミの耳元へと唇を寄せて。
小さく柔らかい声で甘えるように囁く。
「……You are my Valentine」
チナミには何の事だかまったくわからない。
意味など何も理解出来ないのである。
ただアーネストがいつも以上に自分に甘えてくれている事だけはわかった。
普段は大人びているというのに今はチナミより大きな身体をすり寄せていて。
まるでチナミより年下の子どものようだ。
だからチナミは普段なかなか恥ずかしくて出来ない唇への口づけを送った。
「チ、チナミくん!?」
それが意外だったのか今度はアーネストの方が驚いた顔を見せる。
「何だ。そんなに驚く事はないだろう?こ、こ、恋人なのだから……」
「それは……そうですが……」
「オ、オレは雪に降られて身体が冷えているんだ。だから……」
すり寄ってきていた身体を畳の上にどさりと倒すとそのままその身体に覆い被さった。
「えっ!?ちょっ……!?チ…ナミ……くん……?いきなり何を……?」
付き合うようになってから夜の行為は何度もした事があったが。
チナミは基本的に真面目な性格だ。
余程の事がない限り、陽が落ち切らない時間帯には手を出さない。
それなのに天気が悪く薄暗いとはいえ、まだ夜にならない内から押し倒されるなどとは予想していなかったようだ。
アーネストが顔を真っ赤にしながら困惑していた。
「お前の熱で冷えた身体を温めて欲しい」
「……え?え?」
「今日は恋人にとって特別な日……だと言っていただろ?」
「言いましたけど、チナミくんは何の日だかわかっているわけじゃないですよね?」
「わからなくても……お前がオレに甘えてきている事くらいはわかる」
「…………」
「そんな姿を見せられて何も手を出さないのも男が廃るだろう?」
それに。
誰だか知らないが、薔薇の花を添えて恋文を贈ってきた者に対して。
少しでも心を揺さぶられてしまった事に罪の意識を感じてしまったから。
自分の想い人がアーネストである事をきちんと己の中に刻みつけたいという願いもあった。
「チナミくんの身体……本当に冷たいんですけど……」
「先程まで雪の降る中にいたのだから当たり前だ。だからお前に温めて欲しいと言っている」
「か、風邪をひいてしまいますよ。お風呂で温まってきた方が……」
「ならば後で共に入ればいい」
そう言ってチナミは濡れた服を脱ぎ捨てて。
更にはアーネストの衣服にも手をかけ始めたのだった。
チナミがバレンタインという日を知るのはそれから何日も後の事であったが―――
バレンタインという日が愛を伝える日であるという事。
その日には恋人同士が贈り物を贈り合ったりするという事。
そしてイギリスでは自分の名を書かずにひそかな想いを“かーど”というものに綴って想い人へ贈る習慣があるという事。
そんな事を教えられて。
そこではっとしてチナミは仕舞い込んでいた二つ折りの文を取り出した。
あまり気にしていなかったが。
よくよく見れば筆跡が似ている気がして鼓動が高鳴る。
ああそうか。
だからあの日あの時、アーネストは笑っていたのかと。
チナミの中ですっきりと答えが見えてくると。
一人その文に綴られた言葉を眺めては笑みを浮かべた。
来年は一緒にこの日を祝えたらいい。
その時は自分も何か贈り物がしたいと。
そうチナミは思ったのだった。
Fin.
イギリス式のバレンタインネタが何だか楽しそうだったので書いてみました。
アーネストのお相手は悩んだ結果チナミくんに。
このネタはバレンタインをまったく知らない人相手の方が良さそうだったもので……
“冬薔薇”と書いて“ふゆそうび”と読むのは何か綺麗ですね。
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