想いのカケラ
……愛している。
言葉ではこの気持ちを表しきれないくらいに……
たとえ、この想いが誰かを傷つけるものだとしても……
お れ は ―――
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どうか目を開けてくれ。
その柔らかな声を聞かせてくれ。
そしてまた微笑んで、
おれの……
名を呼んでくれ。
ああ……
誰かの声が聞こえる……
優しく誰かがこの身体を抱きしめてくれていて……
そっと頭を撫でてくれている……
ねえ。
私を呼んでいるのは……
私に触れているのは……
……だれ?
ずきんと頭が痛む。
『……っ』
もやもやとしていてはっきりしない意識が少しずつ少しずつ浮上してゆくように。
ゆっくりと瞳を開いた。
最初に見えたのは薄暗い部屋の天井。
その建物は見慣れない造りで。
ぼんやりとした意識の中、目を瞬かせる。
『……ここは?』
呟いた声に反応したのか部屋の隅から誰かが慌てて動く音が聞こえた。
「気がついたのかい?」
まだ状況を把握していない私の顔を覗き込みながら問いかけて来る。
長いウェーブのかかった髪を簪で纏め上げた顔立ちのよい男。
気だるげに、けれどこちらを心底心配しているといった表情。
イギリスでは見ない着物というものを着た変わった風貌。
『…………』
どう答えてよいのかわからず言葉が咄嗟に出て来ない。
「……みんな心配しているよ。目が覚めてよかった」
無言の私にまた彼は話しかけてきた。
ほっと安堵のため息を吐いたのが私にもわかったけれど。
私は今のこの状況が理解出来ずに惚けてしまっていた。
「こんな時間だけれどきっと早く知らせた方がいいだろうね。みんなを呼んで来るよ」
そう言って覗き込んでいた顔が離れてゆく。
そのまま遠ざかってゆく彼を引き止めるつもりではなかったが、それでも疑問に思って呟いた。
『……ここは?私は一体?』
その呟きを聞いて、部屋を出て行こうとしていた彼が立ち止まった。
振り返りこちらを見つめて。
軽く笑みを浮かべながら口を開く。
「ここは私の隠れ処だよ。他の所も考えたのだけれど、またいつ何が起こるかわからないから、ここが一番安全だろうって事になってね」
私の呟きに答えるように返された言葉。
けれど私は彼の言った言葉を理解出来なかった。
母国語ではない。
私の知っている他の国の言葉でもない。
本当に知らない言葉なのだ。
だから、理解出来ない。
『え〜と……?』
困惑しながら上半身を起こす。
またずきんと頭が痛み、思わず呻きながら頭を抱えた。
「ああ……まだ傷が癒えていないようだから、無理に起き上がらない方がいいかもしれないよ?」
何を言われているのかわからない。
ただ頭以外にも身体の彼方此方に痛みを感じて更に蹲ると、彼はそっと私の身体を支えるようにしながら触れ、再び布団の中へと横たわらせてくれた。
「大丈夫かい?しばらくは安静にしていた方がいい」
何もわからない。
彼が誰なのかも。
彼が何を言っているのかも。
ただ本当に私を心配してくれているのだという事は何となくわかった。
私を害するつもりがあるとは思えない。
問題があるとすれば私が今の状況を理解出来ないという事。
自分が何者でどうしてここにいるのか。
『……私は一体?……あなたは誰?』
彼の話す言葉とは違う言葉で尋ねても通じないだろうけれど。
聞かずにはいられない。
駄目かもしれないと思いつつ問いかける。
布団をかけ直してくれたその手がぴたりと止まった。
驚いたような顔で目を大きく開いた彼がしばらく考え込む。
そして。
『……もしかして記憶が……ないのかい?』
返された言葉は驚いた事に私に通じる言語だった。
『何も……覚えていない?……私の事も?』
彼はどうやら私の国の言葉も話せるらしかった。
それはとてもありがたい事で。
まだ彼が信用出来る相手かどうかもわからないはずなのに。
すっかり心を許してしまっていた。
こくりと頷いて見せると彼はまた困ったように考え込んだ。
『自分の事はわかるかい?名前とか……年齢とか……家族の事とか……』
躊躇いながらも私の理解出来る言葉で問いかけられる。
名前を問われて考え込む。
私の名前……何だっただろうか?
もやもやと霧がかかったような不確かな頭で必死に思い出そうとする。
まるで晴れない頭の中は自分の故郷のようだ。
そう、自分のいたはずの国ではすっきりしない霧がかったような天候が多かった。
そこまで考えてはっとする。
『……アーネスト……サトウ……』
ふと浮かんだ名前。
『私はイギリスにいたはず……ですよね……?』
そこまで思い出してまた頭がずきんと痛む。
それ以上の事は考えられなかった。
年齢も家族の事も咄嗟に出て来ない。
『名前は覚えているようだね。イギリスから来たという事も……。他には何か思い出せるかい?』
『……いいえ……』
『……そう……。とりあえず待っていて。あなたが目を覚ました事、知らせたい人たちがいるから』
彼はそう言ってまた部屋を出て行こうとした。
襖を開ければ外も薄暗く、陽も昇りきっていない時刻のようだ。
完全な暗闇ではないため、ある程度周りの様子は見えるが。
外の空気は冷たく、風が吹き込むと布団の中にいても少々寒さを感じた。
去り際、彼がこちらを振り返り小さな声で呟く。
「ずっと彼はあなたの傍で名前を呼んでいたよ。目を覚ましたと知ればきっと喜ぶだろうね。でも……大切な人に忘れられてしまったと知ったら……辛いだろうね。私でさえこんなに寂しいと感じるのだから……。これが一時的なものであればいいのだけれど……」
私の知らない言葉。
だけどそれはとても悲しそうで、何か大切な事を言われているような気がした。
ゆっくりと襖を閉められ、知らない部屋に一人残されると途端に不安が押し寄せる。
何もわからず自分が今どこにいるのかもわからない。
先程の男は自分の事を知っているような口ぶりで話をしていたけれど……
私は彼の事を何も覚えていなかった。
服装や言葉からしておそらく異国の人間なのだろうと思う。
幸い彼は英語が話せるようなのでその点に関してはありがたい。
ぼんやりとした頭で自分の今の状況を思い出そうと試みる。
しかしやはり頭がずきずきと痛むだけで何もわからなかった。
やがて複数の足音が割と急ぎ足で近づいて来た。
先程の男が誰かを連れて戻って来たのだろうか。
痛む身体で起き上がる事も出来ず、そのまま布団の中で待つ事しか出来ない。
そして再び開けられた襖の先には先程の男の他に3人の男が立っていた。
「アーネスト!!」
「サトウ!!」
その内の2人が大声で名を呼ぶ。
記憶が曖昧すぎてはっきりとは言えないがおそらくそれは私の名。
確証はないが、多分そうなのだろうと思う。
何となくだが自分でもそれが名前だと感じるのだ。
けれど相手の方は私の事を知っているようでも残念な事に私は誰の事も覚えがなかった。
体格がよく、癖っ毛、それでいて人懐っこそうな男が私の名を呼んだ後。
そのままの勢いでこちらに近づいて来たかと思ったらいきなり抱きしめられていた。
「よかった!心配したんだぜ!」
そのあまりの勢いに驚くと同時。
身体中に痛みが走る。
『……っ!?い、痛いです……』
離れて欲しくて言った言葉だったが通じた様子がなく。
力が緩められる事もなく、ぎゅうぎゅうと締めつけられるようにすり寄られて。
どうしてよいのかわからない。
すると私の言葉が理解出来るらしい男が静かに告げる。
「龍馬さん、アーネストさんの傷がまだ癒えていないから痛がっているよ」
私にはわからない言葉だが目の前の男には通じたらしく、抱きしめられていた身体は解放された。
「おお、すまんすまん!目が覚めたのが嬉しくてついな」
「龍馬……怪我人を相手に力加減しなさすぎだろう……」
「……晋作、そんな恐い目で睨みなさんな。お前だって心配してただろうに」
「だからといっていきなり寝ている者に突進する奴があるか?生きるか死ぬかの傷を負っていたのだぞ?サトウ殿を殺すつもりか?」
「いや悪かったって!アーネスト、傷口が開いたりしてないか?何なら医者を呼ぶかい?」
知らない言葉であれこれ会話が進められているが。
理解出来ない私には口を挟む事も答える事も出来なかった。
「……おい夢の屋!先程サトウが目を覚ましたと知らせに来た時……何か問題があると言っていなかったか?」
「……ああ……そうだね」
「一体何が問題なんだ?」
「それは……」
「それは?」
どこか緊張した空気が漂い、ほんの僅かの間沈黙が流れる。
話の内容がわからない以上、私は黙って彼らのやり取りを見ているだけだ。
それでも何となくわかる。
これから告げられる言葉がとても重要な事であると。
「彼の記憶が……ないみたいだ」
一言、静寂の中に流れ込んだ。
そしてもう一度一呼吸置いて。
「名前とイギリスから来た事以外……何も覚えていないみたいだ」
告げられた言葉に他の3人が息を飲んだように見えた。
「は?」
「……おいおい……それはどういう事だい?」
「……覚えていないだと?俺たちの事もか?」
「ああ。誰の事もおそらくは……日本語すら覚えていないようだからね……」
「ではサトウにオレたちの言葉は通じていないという事か!?」
「な、何だって!?」
「……ならば当然八葉としての記憶もないというわけか……?」
「それどころか通訳生としてこの国に来た記憶すらないだろうね」
しばらく彼らの会話を傍観していた私だったが。
やがて皆がこちらに向き直り、何もわからない私に色々と教えてくれた。
まずは彼らの名前。
目を覚ました時、まず最初に声をかけてきた英語が話せる男の名は福地桜智(フクチオウチ)というらしい。
部屋に来て突然私に抱きついて来た癖っ毛の男は坂本龍馬(サカモトリョウマ)。
黒い衣服に身を包み、その場にいるだけで威圧感を漂わせている男は高杉晋作(タカスギシンサク)。
赤毛の長い髪を三つ網にして垂らした少年はチナミ。
言葉が通じない私と彼らの通訳をしてくれるのは桜智さんだ。
記憶のない私がどういった経緯でイギリスからここへとやって来て彼らと出会ったのか。
わからない事は多かったがそれでも少しずつ、話を聞かせてくれた。
「宰相を倒し、大きな危機的状況が回避されたとはいえ、まだまだこの世の中は安定していない部分も多い」
「ああ、攘夷を唱えるものも完全にいなくなったわけじゃないからな。それでアーネストが狙われたわけだしな……」
「オレももっとこいつの事を気にかけていればこんな事には……」
まだ何も思い出せない。
だが何故私が記憶を失くしてしまったのか。
その理由が少しだけわかった。
今私がいるのはイギリスではなく、遠く離れた日本という国だという事。
どうやらこの国は他の国の者を受け入れられない人たちが多く。
場合によっては過激な行動を起こす者もいるらしい。
そしてそんな人たちに狙われ命を落としかけたらしかった。
おそらく襲われた時に頭を強く打ってしまったのだろう。
それで私は目を覚ました時に彼方此方傷を負っていて頭がずきずきと痛むのだろう。
この身体中の怪我は攘夷派という者たちに襲われた時の傷。
またいつ狙われるかわからないので比較的安全であろう桜智さんの隠れ処に身を寄せる事になったのだという。
誰かに命を狙われている。
それを聞いて不安が押し寄せる。
何もわからない状況で、誰かに襲われる危険性があるのだと聞いて落ちつかない。
そんな私の心情を察したのかみんなが私に何か声をかけてくれていた。
もちろんその言葉は私の知らない言葉だったけれど。
不思議と安心させてくれるものだった。
わからない事は多いけれど。
きっとここにいる人たちは自分にとって大切な存在なのだろうと思えた。
きっと信用出来る人たちなのだと。
そして桜智さんが私にもわかる言葉で言ってくれた。
みんながついているから、大丈夫だよと。
その言葉に頷いて、私は再び眠気に襲われて意識を手放した。
おそらく思っている以上に自分は深い傷を負っていたのだろう。
目覚めたばかりでわからない事だらけの中。
たくさんの話を聞かされて疲弊してしまったらしい。
重くなる瞼が徐々に閉じられると、それに抗う事も出来ず眠りに落ちていった。
夢の中で。
誰かがまた私の名を呼んだ気がした。
ふわりと優しく身体を包み込むように抱きしめられて。
静かに囁かれた言葉。
何があっても、必ず守る―――
たとえ覚えていないのだとしても―――
それはとても優しい言葉で。
意味を理解する事が出来ないというのに。
何故かとても切なくなり、夢の中で無意識に涙が零れていた。
30000Hit記念長編SSです。
一応『』で表記している台詞は英語で喋っている台詞のつもりです。
さすがに量が多いので英語にするのはやめました。
いつ完結するのかわかりませんが気長にお付き合いくださいませ。
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